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公演が終わってから彼に何と感想を洩らそうかと考えを廻らせ、袂から取り出した金糸の懐中時計を開き針が八時を指している事に気付く。もう帰らないと。
まだ幕は引いていない。
後ろ髪を引かれる思いだったが体調も芳しくない上に、明日も稽古が控えている。数珠繋ぎに座っているお客さんの間を縫って早々に小屋から立ち去った。
家に着くと玉置が玄関で帰りを出迎えてくれる。
玉置は家元を離れて馨の家で引き取っているため一つ屋根の下で暮らしている。馨の身の回りの世話を担う玉置は主人が帰宅するとすぐに夕ご飯の用意をしてくれた。玉置と二人で囲む食卓で今日観た梅野一座の話を聴かす。
「兄さん、何だかとっても嬉しそう」
稽古場のこともあり、馨が塞ぎこんでいると思っていた玉置はつらつらと大衆演劇について話す師匠に顔を明るくさせた。
「嬉しそう…?」
どんな顔をしているのか自分では見えない。箸を止めて不思議そうに手を頬へ置く。
「今朝よりは明るくなりましたよ」
どうやら思った以上に気晴らしになったらしい。しかし思い出したように「そうだ、細見さんからお電話がありましたけど」と告げる玉置の言葉にまたも表情は曇ってしまう。
「細見さんからですか……」
名を口にするだけで気が重くなってしまう。連日の誘いをそろそろ断らなければいけない。今日のように追い出される事など二度とあってはならない。
馨の様子に気付いた玉置は気が利く弟子らしく「私からお断り入れましょうか?」と申し出た。
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