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「お、おいおい、馨さん、なにもそんなに深刻にならずに。面を上げて下さいよ」
馨は申し訳ない気持ちで一杯になりながら厚志を見上げる。当の厚志は気にする様子もなく、むしろ込み上げる笑いを抑えきれずに声をあげて笑っていた。
「ははは、玉置君ってのはスジが良い。この俺を臆面もなく叱ってくるんだから。良いお弟子さんをお持ちになりましたね、馨さん」
愛嬌のある言い回しで屈託なく厚志は「師を思う弟子心、立派じゃないですか。叱らないでやって下さい」と付け足す。
どうやら怒ってはいない事が解り、馨はほっとして肩の力を抜く。
「本当に思いやりのある良い子なんですけどね、まだこの世界に入って日が浅いから立場っていうものを理解しきれていないのかしら」
ひやりとさせられ困った様子の馨に朗らかな厚志の声が届く。
「俺は古い先輩さん達とは違い、立場がどうとは思いませんよ。むしろ玉置君のような熱い志を持った子にはどきっとさせられる」
袂から腕を出して膝元に置いてある洋物の煙草を手に持つ。厚志の行動に馨は自然と舞台に居るような動きで畳の上に足を滑らせ近くへ行き、マッチを擦ってやる。
火をかざすと厚志も違和感なく煙草を近づけ火を灯した。
このような動作は二人で相手役を務めているため、舞台でなくとも自然にとってしまう。普段からこうする事で舞台での息が合うからだ。
「自分は出来ているという驕った気持ちが醜く感じて、また明日からまっさらな気持ちで役に挑もうって気にさせられた」
穏やかな空気に厚志の吐く紫煙が揺れる。外部との隔たりを持たず、しきたりに縛られない現代っ子である厚志は憎めない面が沢山ある。
「そうですね。昨日、浅草で芝居観て来ましたが、私も若い役者さんには負けてられないって思いましたよ」
世界はたがえど、吟次の芝居に向ける情熱を肌で感じ、厚志と二人しんみり思いふける。
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