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「ちょいとお兄さん、そこのお兄さん」
軒を連ねる飲み屋を物色しながら歩いていると不意に誰かに呼び止められる。目線を泳がせると道の脇で家屋にしだれかかるようにふくよかな年増の着物の女性が立っていた。手拭いを頭にかぶせて人相がはっきり分からない。
「私…ですか?」
周りを見渡しても誰も立ち止まっておらず本当に自分を呼んだのか馨は怪訝な顔つきになる。
「そうだよ、あんさんよ。ひどいじゃない、忘れたの?」
紫の着物を着た女性は腰をくねらせてつれない馨を一方的になじった。
妖艶な姿に馨は見覚えがあるか頭を巡らせるのだけれど一行に思いつかない。
「ごめんなさい、私には覚えがなくて…。人違いでいらっしゃいませんか?」
「やだわ、お兄さん、忘れちゃったの………?」
手拭いの裾を噛んで女性はしょげてしまう。
「ねぇ、こっちに来て、わたしの顔をよく見ておくれ。きっと思い出すに違いないわ」
馨は誘われるまま何の疑問も持たずに女性へと近づく。距離を詰めて女性の顔を覗き込もうとした瞬間「あっしですよ、馨さん」と男の声を出す。
手拭いの間からニイっと人の良さそうな笑みを向けた顔に馨は度肝を抜かれた。
「ざ、座長さんっ?」
「そうですよ、本当に気付かないなんてひどいお人だ」
瞠目している馨に梅野一座の座長は弾けたように笑い出す。
先程まで匂いたつような豊満な熟女は一瞬にて四十のおじさんに早代わりしてしまった。これに驚かずして何に驚けと言うのか。
「驚かせてしまい、すいやせんねぇ。本当に気付かないもんだからおかしくて」
馨は邪気のない素振りに複雑な心境で眉を下げた。
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