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「お待ちさすって下さい。もしかしたら吟次の事じゃありませんか?」
「ええ、実は」
「なら、今からちょいっと家に来て下さいよ」
「お家へ……?」
急な話に馨は聞き返す。
「吟次の奴、昨夜馨さんが楽屋に来ないって拗ねましてね。多分、家で不貞寝でもしているんで、お時間があるなら行ってやって下さい」
そこまで吟次が気にしているなんて馨は想像もしていないことだった。
「そうですか、吟次さんには申し訳ないことをしました。私も本当は楽屋の方にお邪魔させて頂きたかったのですが時間がありませんでしたので」
「気になさらないで下さい、たまにゃあいつも待たせる側じゃなく待つ側にもならないと芸が磨かれないってもんです」
座長は「案内しますよ」と馨を連れ立って自宅に向かう。雷門通りから歩いて十分の所、駒形1丁目の手前にある古い木造建ての平屋の一角が自宅らしい。長屋という昔ながらの密集住宅だ。
「おーい、吟次、おまえさんにお客さんだぞ」
引き戸を開け先に座長が入ってゆきそれに続き馨もお邪魔した。
入り口兼台所で履物を脱ぎ畳に上がる。長方形の一間に龍の絵が描かれた屏風で仕切られた閨には布団が敷かれており、そこから人の足だけが覗いていた。
「寝てるのかい? せっかく馨さんがいらしてくれたと言うのに、だらしのない奴だ」
意地悪く座長はこれ見よがしに吟次に聞かせる。
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