無貌

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「……彼に話を戻そうか。彼は臆病でもあったけれど、困ったことに自分が臆病だと知られることを一番恐れていたんだ」 「あいつは、いつも仮面を被っていたのさ」  男が白黒の石を摘まみ上げながらせせら笑った。パチリ、と再び白が黒へと裏返る。 「友人の前では、あいつは捻くれてるが、有能な男でありたがった」  だが、と女性が紅茶を一口啜る。カップの金木犀がきらりと光を反射した。 「彼の家族は、そんな彼の人格をよしとしなかった」  女性は掌のリバーシの石をじっと見つめた。 「彼は両親から謙虚であれ、優しくあれと教育された。そうして、いい子であることが、いつしか彼にとって自明の責務となっていた」 「むしろそうだったからこそ、親の目の届かぬところでは、執拗に奔放であろうとしていた。あいつは親の教えと真逆のものに憧れた。全くもって単純な話だ」  男が再び紅茶を啜る。女性が席を立ち、ポットに茶葉を足して新しく紅茶を沸かし始めた。 「彼は誰にも本当の自分を見せなかった。彼が本当の自分になるのは、誰にも見られていない時だけだった」  しかしだな、と男がカップを下ろす。 「このご時世、誰にも関わることのない時間。そんなものがあると思うか?」  男は愉快で堪らないというふうに、左手でフォークをヒラヒラ振った。     
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