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「――――あの、ところで」
他のお客さんがいなくなって、たまたま客が私だけになったのを見計らって息子さんが話しかけてきた。
「間違っていたらすみません。お客さん、ひょっとして随分前にうちにいらっしゃってませんでした?」
「え」
突然の質問に目を見開いてしまう。
「――――ええ、はい。学生時代ですから十年は前になりますけど、よくお邪魔してました」
「やっぱり!」
息子さんが晴れ晴れしい笑顔を見せる。そして「ちょっと待ってくださいね」とカウンターの下から出してきたのは、一冊の本だ。
見覚えがある。学生時代に気に入って読んでいた、女流作家のエッセイだ。そういえばいつの間にか手元からなくなっていたんだっけ。裏表紙をめくれば端っこに小さくK.Mのイニシャルが書いてある。本橋喜美――――私のイニシャルだ。
「これ、忘れ物だと思います。次にいらっしゃったらお返ししようと思っていたんですが、それきりお見かけしなくなったので」
「保管してくださってたんですか?」
「ええ、もちろん」
そのかわり、こっそり読ませていただきましたと頭を下げられた。
「ありがとうございます、好きな本だったんです。でも、男の方には甘ったるいんじゃないですか?」
「ええまあそうですが、でも、本って自分の知らない世界を知るのが面白いじゃないですか。人は百人いれば百通りの考えがありますものね。だから、知らない考え方が読めて興味深かったですよ」
私は目を見張った。哲夫なら「ダメダメ、こんな甘っちょろい考えなんて読むに値しないよ」なんて本を投げ出しそうだ。
――――馬鹿だな、哲夫と比べてどうするんだ、私。ごく一般的に、社交辞令的に同意してくれただけだ。そう考えているのに、目頭が熱くなる。
嬉しかったんだ。十年も経って覚えてくれていたことが、忘れ物をずっと取っておいてくれたことが、私の考えに頷いてくれたことが。相手は客商売だからなんだろうけど、そんなことで胸が暖かくなってくる。
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