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思っていたより疲れてたんだな、私。久しぶりに心から笑顔ができた気がする。次に恋するならこんな穏やかな人がいいな。ふとそんなことを考えて、慌てて頭の中から打ち消した。
思考の奥の奥にぽつりと灯った暖かい光は、今になって思えば10年前のあの頃にも実は灯っていたような気がする。ひょっとして淡い初恋みたいなものだったのかもしれない。だからこそこんな失恋したばかりのときにそんなことを考えるのは、ただ優しくされて流されているみたいで、大切な思い出を汚してしまうような気がしたからだ。
チリン、とドアベルが鳴り、誰かが入ってきた。
「瑠偉、お待たせ――――あら、失礼しました。いらっしゃいませ」
カウンターの中に入ってきたのは初老の女性。髪は白くなったけど間違いない、ママさんだ。買い物をしてきたのだろう、たくさん品物の詰まった袋をキッチンに置いて、それからしげしげと私と彼を見比べる。
「何か、お邪魔だったかしら」
「ち、違うよ母さん! ほら、あの本の忘れ物の主だよ」
「え? あのエッセイ? まあ、まあまあ! よくいらしてくれたわね、待っていたのよ」
そこからはママさん――――明子さんの怒涛の質問攻撃に、私はあのあと就職して忙しくなり、職場と逆方向のこの街から足が遠のいてしまったこと、この年になっても独身なことなどなど、気がついたらぺろっと喋らされていた。
さんざん長居をして、二杯目のコーヒーもいただいてやっと腰を上げた。
その頃には明子さんとも、息子さん――――瑠偉さんともすっかり打ち解けて、私はまた来ると約束をした。
店を出たらもう空は茜色。
ああ、居心地が良かった。すごく元気をもらった。そうだ、少しのんびりしたら新しい仕事はこの街の近くで探そうかな。
そんなふうに考えながらぽつりぽつりと明かりのつき始めた商店街を歩き始めた。
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