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美しき兄弟の絆
その一
世の中には、対極の存在がある。
北極に対し南極があるように、資本主義には共産主義、正には負、もしくは悪、と数え上げればキリがない。
もちろん永久に変わらない対極だけではない。
一夜にしてコロリと変わる対極もある。
愛情が一線を踏み越え、憎悪に変貌する。
男性が、打って変わって女性になる。
資産家が見事に破産して貧乏に陥いる、といった具合だ。
涼ノ宮兄弟は、兄の愛一郎が高校三年生、弟の誠介が小学四年生の時に両親が事故で突然他界して、二人っきりになってしまった。
それまで幸福を絵に描いたような家庭であったのが、一転したのだ。
狡猾な親戚連中は葬式が終わるやいなや、少なからずあった涼ノ宮家の資産を、むしろ心地よいくらいの勢いで奪い去り、成人前の兄弟二人は住む家さえ無くなってしまったのであった。
捨てる神あれば拾う神(あっ、これも対極?)ありで、近所のまったく赤の他人であるおばあさんが、経営しているアパートの一室を二人に提供してくれたのだ。
六畳一間であったが。
家賃は出世払いでいいからと、まさしく女神のごときありがたい施しを兄弟に与えてくれたのである。
愛一郎は高校を全日制から夜間部に切り替え、新聞店で配達の仕事をしながら誠介を育てることにした。
亡くなった両親に代わって、自分が弟の面倒をみるのだと十八歳の少年はコブシを固く握りしめたのだ。
弟の誠介は頭が良い。
すこぶる賢い。
だから何としてでも大学まで進学させてあげたい。
愛一郎は自分のことは置いといて、両親以上の愛情を持って誠介を育てる決心をする。
涙なしには語れない兄弟愛を描く純文学のつもりが、どこをどう間違えたのか予想外な物語になってしまったことに、後から気づく。
愛一郎は新聞配達の仕事をしながらも、せめて高校卒業の資格くらいは持ちたいと勉強も頑張った。
そのため心身共に疲労困憊であったのだが、唯一の趣味だけには時間を捻出し打ちこんでいた。言いかえれば、この趣味があったからこそ勉学も新聞配達も両立できたのかもしれない。
それは、漫画を描くことであった。
ただし一般ピープル向けの漫画ではなかった。
早い話が、きわめてマニア向けの、ロリコン漫画であったのだ。
ただ誤解のないように付け加えれば、成人指定のアダルト仕立てでは決してない。
とにかくカワイイ女の子を描いた漫画で、むしろ少女マンガに近かった。
だがロリコンマニアが感涙にむせび泣くほどの画風であったため、愛一郎本人もロリコン漫画のカテゴリーに入れられてしまうことは重々承知していた。
どのジャンルに組み入れられようと問題ではない。
肝心なのは涼ノ宮愛一郎しか描けない、オンリーワンの漫画を描き続けるという一点のみ。
愛一郎は幼い頃より絵を描くこと、特に超絶カワイイ萌える女子を、鬼気迫る勢いでケント紙に描くことが大好きであったのだ。
執筆中の愛一郎はまるで悪霊が憑依したかのごとく変貌し、死ぬほどコワいその形相はもはや人類ではない。
百戦錬磨のイタコや霊媒師でさえ、キューンと幽体離脱して逃げ出すほどなのだ。
両目はひっくり返り、むき出される白目。
口元は耳まで裂けたように大きく開かれる。
上下の歯がガチガチガチガチと鳴ったり、強烈な歯ぎしりがコダマする。
腰かけている椅子に両膝を立て、その間から上半身を突き出し頭を斜め四十五度に傾けて描く。
時折全身が電撃を喰らったように痙攣する。
病気でも憑依でもない。
これが愛一郎の執筆スタイルであった。
だがその漫画は一コマ一コマが洗練されたイラストのように美しく、見るヒトが見ると、鼻血を吹き上げながら脱糞するくらいの萌えが散りばめられていた。
両親が健在の時にはあくまでも趣味で、隠れるようにして描いていた。
そのため両親は、我が子が悪魔のような姿に変貌してロリコン漫画を描いているなんて思いもしなかった。
知らないまま鬼籍に入れたのは、仏さまのご慈悲に違いない。
狭い一間のアパート。
時間は深夜。
すでに布団にくるまっている誠介は、むろん兄の戦慄する執筆姿を知らない。
書き上げた原稿を物は試しにと、あるマニア向けの出版社に送ってみようかと考える愛一郎。
もしかすると採用されて、お小遣い程度にでも原稿料がもらえたら嬉しいな、くらいの軽い気持ちであった。
もし原稿料が入ったら、誠介と定食屋へ行って夢のA定食を食べよう、愛一郎は考えていた。
A定食は焼肉にエビフライとカニクリームコロッケが付き、かつ豚汁なのだ。
今の生活では、とてもとても手を出せる代物ではない。
せいぜいE定食が限度だ。
それも給料日翌日、月に一度だけの楽しみである。
平素の食事は時代が二百年もさかのぼったかのような、つつましやかで質素であったから。
愛一郎の送った原稿は多忙な編集者が、開封もせずに丸めてゴミ箱へ捨ててしまっていた。
どうせクソつまらない漫画だろうと勝手に判断してしまったからだ。
編集部にはそれこそ毎日段ボール箱単位で素人が原稿を送ってくるのだから、これも仕方のないことである。
ところが原稿をゴミ箱から拾って読んだのが、編集長その人であった。
これは編集長が、人の目を盗んではゴミ箱を漁るという一風変わった趣味、というよりもビョーキの持ち主であったからに他ならない。
編集長は愛一郎の原稿を見るなり、鼻血を吹き上げ失禁して卒倒した。
異変に気づいた男性編集部員が駆け寄り、編集長の手に握られた原稿に目を通すなり、これまた鼻血を吹き出し、ご丁寧に脱糞までして昏倒する。
余談であるが、それ以来「ダップンさん」と朝の連続ドラマのヒロインを彷彿とさせる陰口を言われていることを、本人は知らない。
涼ノ宮兄弟の住むアパートへ、大金をつかませたハイヤーに法定速度をぶっちぎらせ、パトカーをも振り切らせて編集長自ら躍り込んだのは、その日の夜半であった。
あいにく愛一郎は高校の夜間部へ出かけており、誠介が応対に合板の玄関を開けたのだが、編集長は誠介を一目見るなり、あの超強烈な萌え漫画を描いた作者だと勝手に判断してしまった。
編集長の勘違いは、「ああ、それは間違えても仕方ないですねえ」と誰もが納得する理由であるのだが、理由はもったいぶって後にまわす。
こうしてロリコン漫画家、愛一郎は華やかにデビューすることになった。
結果は、売れるは、売れる!
これほど売れてもいいのだろうかという疑念さえ吹き飛ばすように、売れたのだ。
愛一郎のデビュー漫画が掲載された雑誌は、売り切れ店が続出した。
といっても、元々特殊なマニア向けの漫画雑誌であるため、取り扱っている本屋自体が少なかったのだが。
発売直後からネットで話題になり、強力なウイルスがみるみる感染していくようにロリコン愛好家を中心に拡大していく。
後に「ロリコン漫画界のパンデミック」と伝説になる。
愛一郎と独占契約した出版社は、死なばもろともと思い切って販路を拡大していった。
それにネットによる通販も、編集長が酔った勢いで手掛けることになった。
そして、この判断が吉と出る。大吉を鼻で笑う超吉だ。
以来重要な会議では編集部員は浴びるように酒をくらい、吐きながらのたうちまわって激論する社風になっていく。
余談であるが、現在大手出版社となった同社の入社試験の一次面接は、どれくらい酒が飲めるのか、その一点に絞られている。
現役先輩編集部員と、明け方までサシで飲めた者だけが最終面接へ進むことができる。
愛一郎は新聞配達を辞め、日中はひたすら原稿を描き夜は高校へ通う毎日が続く。
睡眠時間は三時間。
一日で、ではない。
一週間でだ。
愛一郎は若く、また漫画を描くのが三度の食事よりも大好きだっため、体調はむしろ絶好調であった。
描けば描いただけ売れ、その分の原稿料や印税がどんどん銀行へ振り込まれる。
しかもパチンコ台メーカーが、愛一郎の描く漫画のキャラクターを使用したいと契約を申し入れてきたのだ。
この著作権使用料は、立ちくらみに襲われるほどの額であった。
とにかく半端ない「0」の連続。
さすがに映画化やアニメ化にはならなかった。
やはり若干放送倫理規定に引っかかる部分もあったからである。
ビョーキ持ちだが頭の切れる編集長は、音楽業界とタッグを組んだ。
愛一郎の漫画をモチーフとし、新人ガールズバンドに楽曲を作らせてCD化したのだ。
いわずもがな、無茶苦茶売れた。
オリコンチャートで一気にトップに躍り出る。
これも、大きな銭を生み出した。
雑誌が、単行本が、CDが売れ、著作権使用料が入り、愛一郎の銀行預金残高はもはや個人レベルの範疇を越えていた。
そこいらの企業よりも右肩上がりに残高が増加していったのもうなずける。
A定食どころの騒ぎではない。定食屋を百軒、丸ごと買占めても預金残高はビクともしないくらい貯まっているのだ。
おそるべし、ヒットする漫画家。
ロリコンこそ正義、なのだ。
兄弟は滞納していた家賃を百五十倍にしておばあさんに支払い(この時おばあさんは驚きのあまり、危うくアッチの世界へ行きかけた)、駅前の超高層マンションの最上階にある四LDKの一室をキャッシュで購入した。
億ションであるが、それでも預金残高の変動はほとんど無かった。
使った分以上に、また入金されてくるのだ、印税が。
現代の打ち出の小槌、それが愛一郎のロリコン漫画であった。
つづく
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