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01.はじまり
見慣れない天井が広がっていた。重い瞼を瞬くと、生温い雫が一筋。頬を伝っていく。
夢を見た。どんな夢であったか、あまり定かではない。よくある話だ。
彼女は寝ぼけた頭で首を回した。隣では白いカーテンが風に合わせ、気ままに踊っている。青空が鳥のさえずりと、暖かな陽気を窓から連れ込んでいた。絵に描いたような快晴だ。
何も考えず、穏やかなその光景をただ眺める。通りが近いのか。鳥のさえずりに喧騒が混じっていた。オレンジの屋根が連なり、雲の影が点々と落ちている。
心地よい空間の中で、まぶたは再び下がりだす。
「やあ。おはよう、シオン」
そんな微睡みのひと時は、唐突に終わりを告げてしまう。
不意に現れた声に、驚いた彼女は飛び起きた。慌てた声の主は持っていた水差しを机の上へ置き、両手を広げて見せた。
「すまない。君がようやく目を覚ましてくれたのが嬉しくて……」
伏せた碧眼が金色のまつ毛と前髪に隠れた。胸に当てた手は石こうと見違えるほど色白く、長い指が爪の先まで優美な曲線を描いている。
「ここは宿屋だよ。君は気を失って、丸一日ベッドで眠っていたんだ」
柔和な微笑は嫌でも目を惹きつける。おかげで、脈を加速させていた心臓は徐々に平静を取り戻す。
こちらも謝罪しようと口を開きかけ、ふと、ある事に気付く。それは本来であれば有り得ない疑問だった。
困り果てて口ごもっていると、青年が開いていた窓を閉ざす。そよ風は止み、白いカーテンも踊るのを止めた。
「君に相談せず行き先を決めてしまうのは気が引けたけど、一刻も早く君を安静にしてあげたかったから」
通りから聞こえていた雑踏がおさまった。彼は木目の床を歩いているはずだが、不思議と足音が聞こえない。
グラスが水で満たされる。水差しから注がれた水は小さな気泡を立て、窓越しの日差しに煌めく。
「この辺りは比較的、治安も良いし……。陰険な魔術師も少ないと聞いている」
「……まじゅつ、し?」
ようやく開いた口はたどたどしい言葉を紡いだ。
聞きなれない単語に目を瞬く。彼は頷き、まつ毛が瞳を隠す。
「まだ記憶が混乱しているかい……? だいぶ大きな歪みに巻き込まれてしまったからね……」
グラスを差し出され、素直に受け取る。ガラスは心地よく手の平を冷やし、寝ぼけ気味の頭には良い眠気覚ましであった。
「世の理。世界を構築する法。もしくは世界そのもの。そう言ったモノの末端を、自身の力に昇華し、利用、可視化などすることを総じて、魔術と呼ぶ。それを扱う専門職だから、魔術師」
ほら、と。彼は微笑み、持っていた水差しから手を離す。水差しは落ちて、床は水浸しになる、はずだった。
彼女は言葉も忘れ、グラスを手にしたまま呆気に取られる。宙に浮いている水差しを指し、彼は小さく笑う。
「こうして、大地の理に反したり」
おもむろに、つついた指先を滑らせたかと思えば、持っていたグラスの水が跳ねる。彼女が手元を見下ろすと、それは瞬く間に透き通った鳥の姿を成した。
「水に擬似的な命を吹き込んだり、だとか。こう言った術を研究して、世のため人のために尽くすのが、魔術師の仕事だ」
小鳥の形をした水はグラスの縁で羽ばたき、ぱしゃんと、次にはグラスの中で弾ける。グラスを満たす水は揺れるだけで、さえずる事も無い。
グラスをぐるぐると回すも、どんな仕掛けなのか、見当もつかなかった。恐る恐る、口を付けてみる。特に何もない。何の変哲もない、ただの水だ。
青年は金色の髪を揺らし、小首を傾げる。
「他にも質問があると思うけど、その前に君の体は大丈夫かい? どこか痛んだり、不調はない?」
「あ……その……えっと…………」
「遠慮なく言って。僕はそのために、ここにいるのだから」
彼は水差しをテーブルへ戻し、こちらへ身を乗り出した。碧眼の目は、差し込む光の加減で様々に色を変える。
グラスを下ろして、彼女はうつむいた。この状態を、彼に何と伝えればいいのだろう。迷った挙句、最終的には当初の疑問へとたどり着いた。
「あの、私は一体、誰……なんでしょうか……?」
「……え?」
呆けた声がぽつんと、静かな部屋の中に浮かんだ。
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