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15.差し出された手
馬車に乗っていた時間は長かったが、昨日のような腰の痛みはない。柔らかな椅子のおかげだろうか。こうも快適なら何度乗っても悪くはない。できることなら、アーネスと2人でゆっくり話してみたいところだ。
当のアーネスは懐中時計を取り出していた。銀色の短針は昼過ぎを差している。
「途中でもう少し休んでも余裕だったな。いつもの癖で早く着き過ぎてしまった」
「早いに越したことはありませんわ。毎回、手続きに妙な時間をかけられますもの……」
「仕方ない。協会の本拠地ではないにしても、危ない代物が山ほどあるからね」
リアトリスは軽く指で前髪を撫で、背筋を正した。先ほどまでの言い争いが嘘のようだ。
アーネスとリアトリスは一足先に馬車を降りた。窓から見えるのは、屋敷と言うよりも宮殿。ここからでは全貌が見えないほどの広さだ。正面の入口には大きな白い彫刻がそびえている。周囲には人影が等間隔で並んでおり、目深にローブを被った彼らは微動だにしない。
続いてシオンが馬車から降りようとすると、アーネスの手に制された。
「悪いけど、シオンは協会の人間ではないから、僕が迎えにくるまで中で待っていてくれ。手続きはすぐそこでしているから、大事があれば遠慮せずに僕を呼んでほしい」
「わかりました……」
シオンは元の位置へ大人しく座り直した。扉が閉ざされる。
一人となると、途端に心細い。賑やかな車内が恋しく思えた。広くなった椅子の上で、彼女は目を閉じる。
成り行きに従って、ここまで来てしまったがこの先、自分は無事に帰れるのだろうか。とは言っても、帰る先に宛ても無い。もしスフェノスと契約とやらを交わすのであればアーネスは応援すると言ってくれたが、彼女の言葉を全て信じて良いものかも定かではない。だが、彼女が嘘をついているとは思えなかった。このまま、スフェノスを待ち続けるべきなのだろうか。
ため息はいくつ吐き出しても切りが無い。
「疲れているのかい?」
「!!」
驚いて開いた口が慌てて塞がれる。彼はシオンの口を押え、人差し指を口元へ立てた。
「僕だよ、シオン」
「……もう少し、心臓に配慮してくれると嬉しいです」
「ご、ごめん……。次から気を付けるよ……」
バツが悪そうに。スフェノスはゆっくりと手を放した。シオンはとりあえず胸を撫で下ろす。
カーテンの端をめくり、外の様子を窺う。等間隔に並ぶ人影は相変わらず直立不動を続けていた。
隣へ腰を下ろした彼は、別れた時と何ら変わりない。輝かしい容姿にまばゆい微笑みを湛えている。
「どうして……どうやってここに?」
「もちろん。君を迎えに来たんだよ」
スフェノスはシオンの手を取る。その冷たさも相変わらずだ。
「魔術師たちから、くだらない話しを聞かされたかい? このままだと彼らの思う壺だ。一刻も早くここから離れよう」
「……でも、それじゃあ、本当に悪いことをしたみたいです」
「君に罪が有ろうと無かろうと、彼らはどうでもいいんだ。肝心なのは、僕を手籠めに取ることであってね。そんな野蛮な連中と、まともに取り合っても意味がない」
「理由を、教えて下さい」
シオンはスフェノスの手を解く。わずかに、スフェノスの眉が持ち上がった。
「どうしてあなたは、私を選んだんですか……?」
「君が僕の主であって欲しいと思ったからだよ」
「私は魔術師じゃないんでしょう?」
「そうだね。でも、それは僕にとっては重要じゃない」
「あの、スフェノス……」
スフェノスの笑みは変わらない。シオンはため息をついた。その微笑みには見覚えがある。ジェドネフの言葉を思い出し、シオンは視界に彼の碧眼を入れぬようにうつむいた。
「とても、感謝しています……。助けてくれたのは事実だし、あなたはとても親切にしてくれる。でも、隠し事ばかりされては、力になれません……」
「シオン」
穏やかな声は小さく、静かに諭す。
「君は優しい。優しい君が、僕も好きだ。でも、僕を気遣う必要はない。僕は君のモノであって、君のために使うモノなんだ」
「そんなこと、私にはとても……」
それでは話しが違う。友だちから始めようと言ったではないか。
冷たい手の平が頬を撫でる。途端に体が動かなくなり、シオンは息を呑んだ。2本の腕が体を包んでいく。
「優しい君が、また彼らのくだらない争いに巻き込まれて、危ない目に遭うのは堪えられない。僕の力がまだある内に、遠くへ逃げないと」
「それじゃあ、何の解決にもなりません。私は何も知らないままだし、スフェノスはあの人たちに追われ続けるんでしょう……?」
「何も知らないままでいい。君の求める真実なんて毒にしかならない」
「スフェノス……!」
引いても、押しても、力が入らない。スフェノスに抱えられて、シオンは馬車の外へと出ていた。冷や汗が背筋を伝う。先ほどまでいたはずの人影が見当たらない。いったいどこへ行ってしまったのか。
シオンは思わず声を張り上げた。
「アーネスさんは力になるって言ってくれています……! 私は、あの人ともう少し話してから、この先のことを決めたいです……!」
「魔術師は約束を守らない生き物だよ、シオン」
唇に長い指があてられ、声まで出なくなってしまった。
ふつふつと怒りが湧く。この男は、始めから自分の話しを聞く気がない。自分の都合が良い様に、こちらを動かしたいだけではないのか。
睨みつけて抗議するシオンに、スフェノスは苦笑を浮かべている。
「あんな連中……。二度と関わらない方が、君は幸せだ」
「それを決めるのはお前じゃねぇだろ」
「っ……!」
息を詰めるスフェノス。シオンの耳にも届いた、ため息交じりの声は気だるげだ。
シオンの視界に深碧の瞳が浮かんでいた。大きな手に腕を引かれて、シオンの体が宙に漂う。
「シオン……!」
スフェノスはシオンへ手を伸ばした。必死に伸ばされたその手を、ためらったシオンが取ることはなかった。それでも彼はシオンの手を追いかける。
その体を、放たれた一筋の閃光が貫いた。
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