24.記憶の断片

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24.記憶の断片

 また雨だ。  霧に覆われた真っ白な世界が広がっている。肌寒く、無意識に腕を擦った。しっとりと肌を濡らす小雨が、音もなく降る。シオンが辺りを見回しても、白い世界が延々と続いている。 「ここ……。どこ……?」  見覚えはある気がした。  シオンはゆっくりと歩き出す。何かないかと、白の世界に目を凝らした。周囲に手を伸ばす。けれども、いくら歩いても、歩いても、何も見つからない。 「もしかして、死んだ……?」  ふと思い当る。尋常でない眠気であったが、気付かない内に何か起きていたのかもしれない。シオンは腕を組む。  だとしたら困ったものだ。まだ何も分かっていない。スフェノスの目的も。自分のことも。何も分からないままぽっくり逝くのは、いささか納得いかない。  何よりスフェノスが心配だ。アーネスに連れて行かれただけでも怒っていたのに、死んだとなればどうなってしまうのか。  こうも安易に死んではいられない。きっと大変なことになってしまう。  シオンは頭を振る。しかしどうすれば、この霧から抜け出せるのだろうか。  耳を澄ましても、聞こえるのは雨音ばかり。 「……?」  シオンは足を止める。音もなく降っていたはずの小雨の奥から、それとは別に、激しい雨音が聞こえてきていた。  振り返り、元来た白い世界に戻る。しばらく歩くと、温度のない雨粒が頬を伝った。  霧が晴れるにつれ、代わりに雨脚が強まる。しだいに雨粒は、緑の葉が茂った木々の枝を揺らすほどに、激しさを増す。  シオンは森の中にいた。太い針葉樹が並ぶ、薄暗い森だった。足もとの地面は柔らかな苔に覆われ、シオンの足を包む。  雨音が響く森は、やけに懐かしい。  森がひらけると、そこには一面、花が咲いていた。紫苑色の花が咲くその丘を、木々が避けるように囲う。丘の上からは地平線まで続く灰色の海を臨むことができる。  紫の花は雨に打たれて揺れていた。小さな丸い花弁が、地面に落ちる。 「……スフェノス」  彼はひとり。花の丘に立ち尽くしていた。金糸の長い髪は体に張り付き。雨水が絶え間なくしたたり落ちる。どこか遠くを眺めて、動かない人形。  彼にはシオンの声が聞こえていないらしい。代わりにスフェノスが力なく応答したのは、森の暗がりから、彼の名を呼ぶ男の声だった。  シオンがそちらへ視線をやると、そこには影が蠢いていた。人の輪郭を模った影は雨の中をたゆたう。 「戻るぞ、スフェノス」 「……ぼくは、まだ。ここに、いる」  男の声音は淡白だ。  一方のスフェノスはたどたどしい口調で頭を横へ振った。 「フューカスが、かえるまで。ここ、いる」 「フューカスは帰らない」 「フューカスは、うそつく、ない」 「はからずして嘘になってしまう言葉もある」 「らどらどる、の、ことば。まだ、むずかしい」 「そうだな。お前にはまだ、難しいかもしれぬ」  花を揺らして、影はスフェノスの隣へ歩み寄る。空を見つめ続けるスフェノスの頬を拭い、影は声を和らげた。 「屋敷でも待つことはできるだろう?」 「でも、はな。さくころに、もどるって。いっていた」 「季節は何度も廻るものだ。俺もお前も、フューカスからそう教わった」 「……つぎの、はな。かも、しれない?」 「季節は幾度も廻る。花はその度に咲く。俺たちの務めは、それを見守ること。そのために、俺たちに与えられた命は長い」 「だから、ぼくも、いつまでも。フューカス、まてる」 「そうだな」  スフェノスは覚束ない足取りで歩く。そこには自信に満ちた彼の面影はない。  寂しそうにトボトボと。背中を丸めて。足もとを見つめて。まるで―― 「アレは未だ、子どものままだ」 「…………」  背を向けたまま、影が話し出す。シオンはスフェノスの背を眺めたまま、彼の声に耳を傾けた。影の声には抑揚がない。けれども、まぎれもない肉声に思える。 「傾玉(俺たち)は決して、中身と容姿が比例している訳ではない。あくまで、人間(お前たち)に似せて創られているだけのこと」 「……スフェノスは、フューカスさんが、帰ってくると思っているんでしょうか?」 「理解と受諾は別の話しだ。理解はとうにしている。だが、受け入れるだけの容量が、アレには備わっていない。……俺には、教えることができなかった」 「どうして、私に?」 「アレは傾玉として務めを果たせるまでの域に達していない。アレに非はなくとも、それは事実だ」 「……」 「スフェノスはそこにいるべきではない。お前もまた、そこに在るべきではない」  かろうじて人の形を縁取っていた霞が、輪郭を失い、雨に溶けていく。 「スフェノスが自ら真実を明かすことはないだろう。意図せず、お前を傷つけるやもしれぬ。それでも、お前はスフェノスを信じてくれるか」 「私……」  思い出されるのは、穏やかな物腰。子どものように輝く瞳。怒りに身を震わせる姿。  胸元の冷たい石に触れて、シオンは息をついた。 「……スフェノスを1人にはできません」  少なくとも、彼が必死になる理由は自分にあるのだから。  黒い影は形を失い、すでにシオンの目では捉えることはできない。   「……すまない。ありがとう」  わずかに届いた謝罪は、聞いているこちらが心苦しい。  シオンは足元の花を見下ろす。よく見れば、紫苑の花弁はほとんどが散っていた。  視界は再び白い霧に包まれ、黒い霞は呑まれていく。  遠くで呼ばれた気がしたが、よく聞き取れない。重くなるまぶたに従い、シオンは夢の中で目を閉ざした。
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