02.宿屋

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02.宿屋

 はじめに、自分はシオンと呼ばれている。  しかし、予期せぬ事故により、記憶喪失になっている。  そして、向かいに腰を下ろす青年は知り合い、らしい。 「改めて自己紹介をしよう。僕の名はスフェノス。記憶がなくて不安だろうけど、遠慮なく頼ってくれて構わないからね、シオン」 「はい……。ありがとうございます……」  らしい、と言うのは。その事実が彼女には些か受け入れ難い。  目の前に並んだ食事にも手をつけず、シオンは彼を眺めていた。食欲がない訳ではない。むしろ先ほどまで腹の虫が鳴りやまず、宿の女将には笑われてしまった。その女将が腕を奮った料理は、どれも見た目と匂いだけで、空腹を満たしてくれそうな出来栄えである。  しかし、シオンはスプーンを手にしたまま止まっていた。視線は金の髪を揺らす青年から離れない。 「始めから説明しないといけないね……。僕たちは旅の途中で嵐に合ってしまったんだけど、その際に君は不運にも事故で記憶を失くしてしまったようだ……」 「はい……」  眠気は去ったにも関わらず、口をつくのは生返事ばかり。 「この町はアルデランと言う国にある、宿場町だよ。アルデランはアテラス大陸の北西。13の国の内、高原が広がる牧草地帯で…………」  緩やかに流れる金髪の長髪。柔らかな対の碧眼。肌は指先まで白く、細身の長身でありながらも、華奢ではない。着衣は深い黒を基調としており、袖口や真白のスカーフには細やかな金の刺繍が施されている。  声は子守り歌を紡ぐように鼓膜を撫で、絶えぬ微笑はすれ違う人間の目を誰それと構わず惹きつけた。  そんな美男を体現した男が、なぜ自分と2人きりで旅などしているのだろう。 「だからこの先は都へ向かって……。シオン……? 大丈夫かい?」 「……え? あ……。ご、ごめんなさい……」  いけない。彼の話しが全く頭に入ってきていなかった。  シオンは慌てて背筋を伸ばす。  彼は眉を下げた。動きに合わせ、右耳の耳飾りも揺れる。彼が一挙一動する度に、その周辺が輝いて見えた。錯覚であろうか。 「まだどこか具合が悪いのかい? 僕の見立てでは、身体的な問題はなさそうだったけれど、町医者にも診てもらおうか……?」 「い、いえ! 具合が悪いとかではなくて……! 今のはただ、ちょっと……ぼーっとしていただけで……。すいません……」  彼、スフェノスの対応は実に誠実だ。宿や食事の手配はもちろんのこと。献身的に尽くしてくれている。  下着も含め着替えを一式、手ずから持ってきてくれた時はさすがに顔から火が出そうになったが……。  シオンの心中を知ってか知らずか。彼は椅子から立ちあがり、目元を緩ませた。 「遠慮はしないで、シオン。念を入れて困ることなんて、ひとつもないのだから。宿の人に町医者を紹介してきてもらうよ。シオンはゆっくり食べていて」  金の長髪をきらめかせて、彼は店の奥へと向かう。見れば、革のブーツの底には土すらついていない。留め金に施された金細工も、細やかながら優美だ。彼の長く美しい両脚をより引き立たせている。足もとだけではない。白のスカーフにも、きっちりと止められた袖口にも、汚れひとつ、シワひとつ見当たらない。  2人旅をしている身なりには到底、見えなかった。魔術とやらを使っているのだろうか。何にせよ、そんな男の姿に視線が惹かれるのは女に限った話しではなかった。 「……職業は、王子様、だったり」  シオンは一人になったテーブルでようやく一息ついた。手にしていたスプーンを思い出し、目の前の白いシチューをすくう。 「何の味だろう……? おいしい……」  魚か、肉か。はたまた野菜だろうか。記憶はないが生活は体に染みついているようで、慣れない味にスプーンくわえたまま首を傾げた。 「肉の味がする……魚……?」  そんな所だ。  シオンは不思議な味と食感を口へ運ぶ。白いパンは柔らかく、穀物の香りが鼻を抜ける。シチューとは良い食べ合わせであった。とても懐かしい気がする。  香ばしいパンを咀嚼しながら、シオンは改めて辺りを眺めた。中央の柱時計はちょうど昼時を過ぎている。宿の入口は人の行き来が絶えず、食堂は客と活気に溢れていた。  注文がてらに給仕と談笑する者。カウンターの端で、小麦色の発泡酒をジョッキへ注いでいる老人たち。料理を分け合っている親子。数人の麗しい女性陣に囲まれる美男。  背中越しに、何度もその碧眼と目が合った。  女性らに囲まれているスフェノスを遠目に、シオンはパンを千切る。彼女らはテコでも離れそうにないが、どうするつもりなのだろうか。しなやかな腕に手を取られても、嫌がる素振りはない。慣れているのだろう。あの容姿では苦労も多そうだ。  シオンは皿へ目を落とす。パンもシチューも、すっかり平らげていた。着替えの件も含め、後で女将へお礼を言わなければ。  スプーンやフォークを纏め、シオンはにぎやかな喧騒と満腹感にまどろむ。 「食欲はあるようだね。安心したよ」 「あ……はい……」  束の間の安らぎだった。  スフェノスの声と共に、視線がこちらに注がれる。それは品定めをするかのように、シオンを上から下まで舐めていく。  冷や汗を覚えるシオンの前で彼は足を止め、絡んでいた腕をやんわりと払う。 「女将に一番良い町医者を紹介してもらったから、シオンが良ければこのまま向かおうか。着替えもそれだけでは困るだろう?」 「そ、そこまで、あなたのお世話になる訳には……」  突き刺さる視線が問いかけてくる。  シオンは首を横へ振るしかない。誤魔化そうにも情報が乏しすぎる。そもそも彼とはどういう関係なのか? こちらが教えて欲しいくらいだ。  椅子から立ち上がるにも、ついつい視線が泳いでいた。 「でも、あなたは私より年上の方ですし……。その……」 「僕への気遣いは一切、不要だよ。シオン」 「…………?」  おもむろに、スフェノスはシオンの前に膝を折った。彼の行動に呆気に取られているのはシオンだけではない。テーブルの周りが静まり返る。  金糸の髪は不思議と風も無いのに揺れていた。 「僕は君の従者だ。僕は君の言葉のままに従う。君の願いを叶えるのが、僕の使命だ」  胸に手をあて、深く頭を垂れる。唇は朗々と告げる。 「僕の愛しいヒト。僕の愛しい主」  冷たい指がシオンの手をすくい上げ、指先へと接吻を落とした。 「この器は、貴女様のためだけにあります。我が主」  シオンの頭は呼吸ひとつ遅れて、彼の言葉を反芻している。  つまりは……どんな関係……?  唇が声も無く呟いた。  彼の微笑みは絶えない。その指も割れ物へ触れるかのように、シオンの手を包んでいる。  視界の隅に、期待に満ちた眼差しが入った。我に返ったシオンが見回せば、店中の注目が自身へ集まっている。賑やかだった店内は妙な静けさに包まれていた。  ぶわっと。全身に汗が浮かぶ。  シオンはスフェノスの手を掴んだ。そうして、彼女はもつれる足で宿を飛び出した。
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