26.面影

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26.面影

 雨音がする。耳について、離れない。  また、あの丘の上にたどり着いてしまったのだろうか。  シオンは目を開いた。ぼやけていた景色が輪郭を取り戻していく。     「おはよう、シオン」 「…………」  首を横へやれば、目尻に溜まっていた雫が重力に従って落ちていく。  視線が交わると、碧眼が細くなる。いつかの時のように、金糸の髪が日の光に煌めいていた。残念ながら、カーテンは閉め切られている。 「僕がわかる?」 「……スフェノス」  頷くシオン。スフェノスは長い息を吐き出した。冷たい両手が、シオンの右手を包んでいる。ずっと握っていたのか、シオンの手の平だけは心地よい温度を保っている。 「ここは医務室、だそうだ。君はまたあの後、眠ってしまったんだよ。どこか不調を感じるかい?」 「……寂しいですか?」 「え……?」  シオンはスフェノスを見上げる。  彼は目を瞬いた。透き通る碧の瞳を見つめ、シオンは再度、問いかける。 「いま、寂しいですか?」 「……シオンがいなくなってしまうのは、嫌だな」 「私でなくて、フューカスさんが、いなくて」 「…………」  スフェノスは無言でシオンの頬を拭う。冷たい指が目じりを冷ましてくれた。 「あの人は、君と関係ないよ」 「返事になっていません。ずっと待っていたんでしょう?」 「……僕の記憶を見たんだね。そう、ずっと待っていた。でも、あの人は帰ってこない」  スフェノスは自身から彼女の手を解いた。シオンは体を起こす。気を抜けば背中から寝台へ倒れ込みそうだ。他に人影はなく、スフェノスだけが彼女の傍らに座っていた。  シオンは伏せられた碧眼を見つめる。 「私はフューカスさんの代わりになれません」 「分かっているよ。君は君。あのヒトは、あのヒト。分かっては、いる……」  自身に言い聞かせるように、スフェノスは頷く。 「僕は人間でないから……。今の僕のこの感情が、君たちの言う寂しさだと、確証は持てない。でも、恐らく……僕は、寂しいのだと、思う」  言葉を切って、スフェノスは躊躇いがちに続けた。 「どうしようもなく、虚しくて。息苦しくて。口にはしきれない、色々なものに呑み込まれて……。自分がどこにいるかも、よく分からない」 「……?」 「ああ、いや……。人の言葉にするのは、難しいね……」  彼はそう言って自嘲する。 「君の言う通り。僕はずっとあの人を待ち続けていた。けれど、僕が君に尽くしたいと言う気持ちに、変わりはない」 「理由を、教えてくれませんか」 「今はできない。そして僕は、可能な限りその理由を、君に教えたくはないんだ」 「それでは、あなたを心から信頼するのは難しいです」 「そうだね。その結果、君から恨まれても、憎まれても、仕方ない」  青年は膝をつき、すくった指先へ穏やかに口づけた。 「それでも、僕は君を守り続ける。僕が砕けるか、消えてしまうまで」  いつかと同じ誓いにも、指先に触れた唇にも、温度はない。  シオンはそっと、冷たい手から指を離した。 「あなたが私を守っているつもりでも、私にはそう感じられないかもしれない」 「僕は人間でないからね。それも仕方のないことだ」 「否定も、しないんですね」 「……生きていてくれさえすれば、その先がある。だから僕は、主である君の身体の安全を、全てにおいて優先するよ」 「ご主人様は私なのに、それじゃあ、どっちがご主人様なのか、分かりませんね……」    アーネスの話しを思い出し、シオンは苦笑する。  聞こえるのは、外から窓を叩く、雨粒の声だけだった。
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