27.分岐路

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27.分岐路

 あれからしばらく、夢を見ていない。  僅かに開いた窓から心地よい風が吹き込む。そんな風と戯れているカーテンの様子を日永一日、シオンは眺めていた。  真っ白なこの病室から出て行きたいのは、彼女自身も山々である。しかし、部屋から一歩出ようものなら、扉の外に控えている無口な見張りに、前方を阻まれてしまう。彼らは皆、黒の外套を目深に被り、同じような背格好をしていた。何を聞いても答えてはくれない。  シオンは渋々、部屋でぼうっと椅子に座り、数日前の出来事を反芻することくらいしかできないでいた。肝心の体調は心身共にすっかり回復しており、むしろ、このままでは運動不足で不調をきたすのではないか。  スフェノスも、側にいることは感じるのだが姿は見せない。散々シオンを魔術師たちから引き離そうとしていた彼が今になって沈黙を貫いているのはいささか不気味である。  スフェノスからはここが医務室だと言うこと以外、聞かされていない。自分と彼の処遇がどうなったのか。アーネスたちがどこにいるのかも。彼は「わからない」と首を横に振る。  そんな中、不意に病室の扉が叩かれた。シオンは我に返り、椅子から立ち上がる。  扉を開いたのは、背の高い麗人だった。遠目に何度か見ていた彼女は、実際にはシオンの頭ひとつ以上、背が高かったようだ。スフェノスとそう差異もない脚の長さや、冷ややかな面持ちでは、彼らの隣に並んでも全く遜色ないだろう。  意外な訪問者に、シオンはぎこちなく挨拶を口にする。彼女は頷き、単調に返した。 「あなたと2人で話しを」 「アダマスがいなければ、僕が許すと思ったのかい」  間髪入れずに、シオンの隣へスフェノスが現れた。金糸の髪が、久しくさえ思える。側にいても姿を見せなかったのは、気遣いだったのか。それとも、別の理由があったのか。  シオンは割って入るスフェノスをなだめた。 「スフェノス、私も彼女と話したいです」 「この魔術師は、ジェドネフの主である魔術師より信用できないよ」  スフェノスは彼女の腕を引き留める。シオンは足を止め、長身の好青年を見上げた。相も変わらず、彼の表情は柔らかく、声は穏やかに彼女を諌める。  シオンは一度、目を閉ざした。次いでゆっくり、深く、空気を肺へ送り込む。 「彼女と、お話しがしたいんです。スフェノス」  スフェノスはその場から動かない。じっ、と。透き通るような碧眼で、シオンを見下ろしている。なかなか返答がない。 「……何かあれば、すぐにお呼び下さい。我が主」  しかしスフェノスはシオンへ深く一礼し、彼女の頼みを承諾した。少し困ったような笑みを残し、彼は姿を消す。  自分で頼んでおきながらも、意外な返答にシオンはしばし呆気に取られた。これまで頑なだった彼の態度は何だったのだろうか。  淡白な声がシオンを現実に引き戻す。我に返り、シオンは慌てて振り返った。 「すいません、お待たせしました……。あの……」 「気遣いは不要です、楽になさい。私のことは、フルゴラ、と」  フルゴラは扉の前から動かない。青の瞳がシオンを見下ろしていた。  シオンは姿勢を正し、ぎこちなく頷く。 「まずは体調ですが、問題ありませんか」 「はい。もう大丈夫そうです」 「でしたらアーネスとジェドネフに感謝をなさい。今でもあなたのため、有力者に口利きをして回っています」 「分かりました……。必ずそうします」  どこの誰とも分からない人間に、どうしてここまでしてくれるのだろうか。疑問は増すばかりであったが、シオンは素直に彼女の言葉を受け取った。  フルゴラは目を伏せ、続ける。 「次に現時点での、あなたとスフェノス石との処遇について」  シオンは唾を呑み込み、服の下に隠した冷たい石へと触れた。 「アーネスから報告は逐一、受けています。先ほどの様子からしても、スフェノス石からの申し入れ、との事実に偽りはなさそうです」 「でも、私は魔術師ではないどころか、自分自身が誰かも分からないですし……。スフェノスは、私を選んだ理由を、教えてはくれないそうです」 「それらも承知しています」  無機質な会話のやり取りに、居心地が悪くなる。  フルゴラは乾いた靴音を立て、シオンの脇へと歩み寄った。長い髪が風に波打つ。 「あなた自身はどう考えているのですか。シオン」 「私……?」 「自身に関する記憶もない。恐らくは魔術師でもない。スフェノスの目的すら分からない。今回のように、命の危険性もある。あなたはこの状況で、彼の申し出を受け入れる覚悟はあるのですか」 「覚悟……」  シオンはフルゴラの言葉を反芻する。  そんな大層な言葉が出てくるとは思わなかった。考えれば、大袈裟でも何でもない。薬を盛られ、数日間、昏倒した身だ。そうでなくても、うっかりリアトリスやスフェノスの魔術に巻き込まれる可能性も十分に有り得た。 「私が断っても……きっとスフェノスは、私について来るだろうし……」 「それを受け入れるのかと、問うているのです」 「スフェノスがどうしてもと、言うなら……」  堪らず、苦笑が零れた。  思えば覚悟も何も、選択肢が他にない。 「恨まれてでも、憎まれてでも守ると、言われてしまいました……。今さら私が拒んだ所で、もうどうしようもないと思います」 「あなたがスフェノスを拒むとの決断をすれば、私たちが手を貸します。スフェノスをあなたからひき剥がすのは、不可能ではありません」 「でも、そしたらまたスフェノスが、無理をするので……」 「あなたと彼はあかの他人であり、そもそも彼は人間ではありません」 「これでも、友だち。と言うことになっていて……」 「自身の身を脅かす存在を友人とは言いません」 「私の身は守ると、言っていました」  沈黙。視線は痛いが、そこに侮蔑はない。あの悪意に満ちた広間の席でも、彼女は淡々と語り、無表情を張り付けていたが、それを不快とは感じなかった。  シオンは顔を上げ、返答を待つ。 「分かりました」  フルゴラは頷き、踵を返す。 「あなたからスフェノス石を受け入れるとの了承が得られた以上。スフェノス石はシオン、あなたへ委ねることにします」 「……え?」  間の抜けた声を返してしまった。  覚えのない罪を言及されたり、昏倒させられたり。今までの経過は一体、何だったのか。  フルゴラは背を向けたまま、やはり淡々と告げる。 「あなたの保護を依頼してきたのはスフェノス石と同じ、セルティスの傾玉であるラドラドル石と言う傾玉です」 「あ、はい……。アーネスさんから聞いています、けど……」  ラドラドル。舌を噛みそうな名前。形のない男。スフェノスと共に、帰らない主を待っていた宝石の精。  夢で見た、黒い影が脳裏を過る。 「スフェノス石の処罰に関しては、ラドラドル石は判断を協会側、私のアダマス石、及びアーネスのジェドネフ石に任せていました。しかし、あなたについては一貫して譲らず、現状でも保護の上、身柄の引き渡しを要求しています」 「私を引き取りたい、と言うことですか?」 「ラドラドル石はあなたの身の上に、心当たりがあるのやもしれません。私たちが非の無いあなたを拘束し、あまつさえ昏睡状態に陥ったと知り、大層、立腹したようです」  フルゴラは足を止め、息をつく。初めて見た彼女の感情は、呆れだ。 「そこから彼は我々、魔術師協会へ圧力をかけてきました。昨夜のこと。さる御方から、上層部の元へ直々のお言葉があり、あの場であなたを批判的に見ていた者たちは皆、すでに掌を返しています」 「……大人の事情、と言うやつでしょうか」 「誰よりも大陸の行く末を案じる者の善意を無下にした、当然の結果でしょう。もしくは、ラドラドル石は始めから我々をアテにするつもりはなかった、とも」  感情の起伏はほんの僅かな間だった。ですが、と。彼女はさらに続ける。 「私は、彼の要求を全て呑むわけにはいきません。前例がある以上、彼らが間違いを犯さない確証もない」 「前例……?」 「彼らは人間でないとは言え、数え切れない年月を人間と共に歩んできました。肉体の衰えはなくとも、人間に寄せて創られた心が病むのは必然です」 「彼らも病気にかかるんですか?」 「私は傾玉の一、契約主として。そして傾玉たちの管理を任された最高責任者である『フルゴラ』として、スフェノス石の先行きを見据えた決断をしなければなりません。彼が、あなた以外を認めないと主張し、あなたが彼の主として責任を負える間に限り、あなたをスフェノス石の契約主として認めます」  質問の答えを濁された。答える気はない、と言うことだろうか。  質問をし出したらキリがないだろう。何にしても、今の自分には彼を受け入れる他に道が無い。  シオンがフルゴラへ頭を下げると、胸に触れた固い石が肌を冷やした。 「……ここでスフェノスと別れて、一番後悔するのは、きっと私だと、思います」 「あなたがそう決断したのであれば、これ以上、私は口を出しません。ラドラドル石、および元老院への取次ぎを始めます」 「はい。よろしくお願いします」  それ以上の言葉は無かった。早々に、固い靴音は白い扉を閉ざして遠ざかる。  靴音が聞こえなくなると、シオンは息を吐き、椅子の上で膝を抱えた。肩から力がどっと抜け、肺の空気が空になっていく。 「本当にいいのかい」 「あなたがそれを聞くんですか……?」  姿のない問いかけに、シオンは笑ってしまった。そのしおらしさは叱られた子どものようだ。 「私に恨まれても、守ってくれるんですよね?」 「この命に代えても」  返答は短く、鋭い。  彼は本気だ。彼はやり切るだろう。彼はそのためなら、言葉通り、命を引き換えにするのだろう。根拠もなく、シオンはそう感じていた。  ペンダントを取り出すと、透き通る碧の石は陽の加減で表情を変える。握ったその石はいつまでも冷たく、彼女の手の平を冷やした。
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