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03.町の夕暮れ
日も傾き始めて、遠くの山裾は夕日に燃えている。
「本当に医者へ行かなくても大丈夫かい?」
「大丈夫です……。体はこの通り、元気なので……」
彼の職業は王子様でなく、従者。または付き人と呼ばれているようだ。2人で旅をしているのは、シオンの従者として付き従っているため、とのことだ。
宿での一悶着の後。シオンは彼からそう聞かされた。自分が彼の従者であれば驚きはしない。だがしかし、実際の関係は逆のようだ。
シオンは肩を落とす。隣を歩く秀麗な容姿に色んな意味でため息が出てしまう。
どこへ行こうにも人目を集める。歩いているだけで、妖艶な女性たちから一晩の宿のお誘いも絶えない。何より、再びあの宿へ戻るのかと思うと、荷物もそのままに、遠くへ逃げてしまいたかった。
目的もなく辺りを見て歩いている内に、町の境まで来たようだ。石畳の道は丘の向こうまで伸びている。いったい、どこまで続いているのだろうか。
道沿いの民家に、ぽつぽつと明かりがともり始めた。
「そろそろ宿へ戻ろうか。治安が良いと言っても、夜に出歩くのは控えよう」
「あ、はい……。そうですね……」
赤く燃える高原に魅入っていたシオンは、足の向きを変える。夕暮れに背を向けたシオンたちは、ひらけた町の通りへと戻って来た。
通りの両脇には露店が並び、橙色のランプをぶら下げている。売っている物は食品や衣服、装飾品など様々だ。特に空腹を誘う匂いは帰路へつく人々の足を引き留めていた。
「何か欲しい物はある?」
「い、いえ……特に、そういう訳じゃ……」
露店に目を奪われる彼女を、スフェノスが覗き込んだ。
シオンは慌てて首を横に振る。
「意味もなくあなたを連れ回してしまって、ごめんなさい……」
「君が楽しいなら、僕はそれでいいんだよ」
「う…………」
目も眩む微笑に、堪らず苦い顔になる。彼は宿を出てからと言うもの、この調子であった。
静かに微笑んでシオンの隣を歩くだけ。
「少し、冷えてきましたね……」
苦し紛れに、シオンはなんとか会話らしい会話を切り出す。そう言えば、宿屋でこの辺りの土地について話してくれていた気がする。
スフェノスは頷き、暗がりを帯びる空を見上げた。
「そうだね。晩夏と言っても、アルデランは北寄りの国だから……」
彼は軽く右腕を払った。瞬く間に、その手には毛糸で編まれた白のストールが現れる。
シオンが呆気に取られる一方。スフェノスは事も何気に、真っ白なそれを彼女の肩へとかけた。肩にかかる重さと温かさは、間違いなく本物だ。
「昼間は過ごしやすくても、日暮れはもう寒いかもしれないね」
「ありがとう、ございます……」
「お礼なんていいんだよ。当然のことをしているだけだから」
なんだか肩身が狭い。本当に記憶を無くす前はこれが当たり前だったのだろうか?
戸惑うシオンの手を引き、スフェノスはとある露店の前で足を止めた。
店先には本が積まれている。ページは黄ばんでいて、物によっては虫に食われていた。どうやら古書を扱っているようだ。シオンが表紙の文字を目でなぞるも、読めそうにない。よもや、読み書きも忘れているとは。頭が痛い。
スフェノスは一枚の硬貨を店主へ渡す。彼は本の上へ無造作に折りたたまれていた羊皮紙を広げた。
黄ばんだそれに軽く息を吹きかけ、手を離す。すると、古びた羊皮紙はスフェノスの手から離れた後もその場に漂い続けた。
「これがアテラス大陸だよ。少しばかり古いけれど、大まかにはこんな感じだ」
宙で漂う地図に、店主は見向きもしない。シオンは恐る恐る覗き込んだ。
2人の歩みに合わせて、地図は宙を漂う。小さな虫食い穴から足元の石畳が見えた。
「アルデランはここ。地を統べる魔術師の血脈を受け継いだ者たちが住まう、高台の国だ」
「国が13、あるんでしたっけ……?」
「そうだよ。せっかくだから、成り立ちも話しておこうか」
「何か思い出すかもしれない」と、スフェノスの手が紙面を撫でる。すると古びた地図の上に文字が浮かんだ。国名だろうと思われるその文字も、やはりシオンには読めない。
「元々、この大陸は大小様々な国家、民族が争いを繰り返して領地を奪い合っていたんだ。気の遠くなるような長い間。争いの絶えない、名前の無い土地だった。そこへ、ある13人の魔術師が現れる。彼らの力によって、長い争いにようやく幕が下りた。その後、さらに長い年月の間に12の国と、1つの島に国を分けた所から、アテラス大陸の歴史が始まるんだ」
スフェノスの手が腕を引き寄せる。驚く間もなく、ランプを手にした子どもたちがシオンの脇を駆けていった。
「この13人の魔術師は『建世の魔術師』と呼ばれていて……。12の国と1つの島はそれぞれ、国の礎を創った彼らを敬い、その遺志を継いでいる。このアルデラン国であれば『シュティア』。戦争の終結に大きく貢献した、13名の中でも特に優れたと言われる、地の魔術師を祖とする国」
人差し指になぞられた地図の上部が僅かに光を帯びていた。
覚えのない単語に、自然とシオンの眉間は寄る。
「13の国は、建世の魔術師たちが定めた不可侵の条約を、今も守り続けている。おかげでこの大陸には千年に渡り、国同士の大きな戦が起きていないんだよ」
「そう、なんですか……」
「ここまでが一般の学舎なんかでも習う、基本知識だ」
「…………」
シオンは苦い表情を浮かべる。
困った。全くもって記憶にない。
そんな彼女の様子を見ても、やはり彼は微笑む。
「そう焦らないで。君の記憶喪失は一時的な記憶の混乱だ。その内に治るはずだよ」
「だと、信じたいです……」
両手で厚手のストールを体に巻き付けた。
励ましの言葉だとは分かっていても目に見える傷でない分、治ると言う核心を得るのは難しい。
「そうだね。もしかしたら、僕は君に嘘をついているのかもしれない」
「すいません……。そんな、つもりでは……」
「謝る必要はないよ、シオン。君の心配は当然のことだからね」
彼は足を止める。丁寧に折り畳まれた地図が、シオンへと差し出されていた。
周囲の雑踏にかき消されてしまってもおかしくない、穏やかな声音。それが不思議と鮮明に彼女の耳へ届く。
「右も左も分からない中で、何かを信じる事はとても難しい事だ。だから僕は君が安心してこの先へ進めるように、僕の全てを尽くそう」
一呼吸が置かれる合間、胸が詰まるのを感じた。
「この先、何があっても、僕は必ず君を守り抜くよ」
「…………」
知らず知らずのうちに、シオンの口からはため息がこぼれていた。なんとか笑みを返してみせるも、唇の動きが少しぎこちない。
「あなたに甘えてばかりで、本当に申し訳ないです……」
「いや……。むしろ、こんな事態になってしまって、僕は責められるべきなんだ」
「親切にしてくれる人を、責める理由はありませんよ」
シオンは古びた地図を受け取り、スフェノスを見上げる。
金の髪は露店のランプに煌めき、先の高原で見た夕焼けの色をしていた。少し躊躇いながらシオンは尋ねる。
「あの……私も、スフェノスと、呼んでいいですか……?」
「…………」
長いまつ毛の下。碧眼は丸くなり、じっくりと融けていく。
「ああ、是非とも……。スフェノスとお呼び下さい、我が主……」
「え……。主呼びは、ちょっと……だいぶ恥ずかしいので、これまで通りでお願いします……」
胸に手をあて、頭を垂れかけるスフェノスの肩を、すんでの所で止める。往来の真ん中で、宿の惨事は御免だ。
彼の瞳はこれ以上にないほど、期待に輝いていた。スフェノスはシオンの手を掬い上げて包み込む。
「そう遠慮しないで。君の期待は裏切らない。必要とあらば、何でも命じてくれていいからね」
「遠慮している訳では……」
「大丈夫。君の命令なら、本当に、何だって、従うよ」
「いや、そうじゃなくて……」
熱の籠った声と視線に、シオンの笑みは引きつる。
思っていた方向と違う。シオンの右手を取る彼の両手は力強くなり、じりじりと綺麗な顔が近づいてくる。
「君のためなら、僕は何でもするから」
この美男、少しばかり危うい人間では。
つい先ほどの感動も忘れて、シオンは思わず身を退く。まだ心を開くには早すぎたのだろうか。
手を解こうにも、右手は包まれたまま。視線で訴えてみるも、こちらが押し負けてしまう。
シオンは仕方なく足早に歩き始めた。スフェノスは彼女に合わせ、器用に横歩きをしている。傍からすれば、実に奇妙な光景だろう。
「従者じゃなくて、えっーと……友だち辺りから、始めませんか……?」
「どうしてだい?」
「どうしても何も……。私ってそんな大層な身分じゃないですよね……?」
「うーん……それは……」
「友だちから、始めさせて下さい……」
視線がそれた。わずかではあったが見逃さない。
渋々ながらも了承するスフェノスに、シオンは胸を撫で下ろす。
自身の生まれがどのような環境下であったかは未だに知れない。が、言動からしても、俗に言う高貴な立場ではない気がした。
で、あれば。何故、従者を連れて旅をしているのか。スフェノスからはその理由も、目的も未だに聞かされていない。最も、いっぺんに聞かされたところで混乱するだけだろう。何せ魔術がどうとか、始めにされた話しの内容もすでにおぼろげだ。
家々の灯りが石畳を照らし、露店から鼻をくすぐる香りが漂って来る。シオンはふと、隣を歩くスフェノスや、すれ違う人々を観察して思った。
彼と言い、この町の人々と言い。同性とも何度かすれ違っているが、彼女らの平均的身長がシオンより高いのは明白である。肌の色は自身よりずっと白く、髪や瞳は鮮やかだ。自分は明らかに、この近辺の生まれではない。
食べ慣れていない食事。聞き覚えのない単語に、読めない文字。周囲とは異なる容姿。
もしや自身は記憶を失っているだけでなく、随分と遠くから、この地へやってきたのではなかろうか?
そうまでして、自分は何を目的にしていたのだろうか?
物思いに耽っていたシオンの手がおもむろに強く引かれた。何かと思い、顔を上げた時にはすでに遅く、シオンは向かいからやって来た人物にぶつかってしまう。
よろめいたシオンは慌てて謝罪する。
「はあ? ごめんなさい、だけで済ませる気か?」
見上げて、彼女の表情はひきつった。
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