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05.一難去って、また
男は茫然と自身の腕を眺めている。男の腕はあらぬ方へ曲がっていた。もっと言えば捻じれている。絞られた雑巾の様に。肘から先が反対を向いていた。
一瞬の静寂の後。男の悲鳴が通りに響く。男は折れ曲がった腕を押さえてうずくまった。痛みを訴え、状況が理解できず支離滅裂に喚いている。
何が起きているのかサッパリ分からないのはシオンも同じだ。額から冷や汗が噴き出す。シオンだけではない。それまで威勢の良かった男たちは声を引きつらせた。
「あ、あんた、まさか魔術師……!」
「あんな品位のない連中と一緒にしないでくれ。君たちはつくづく無礼だな」
物腰は相も変わらず、柔らかだった。今一度、スフェノスは空を撫でた。すると、後退りしていた男たちの顔から、瞬く間に血の気が失せる。喉を押さえ、次々とその場に崩れていった。
腕を抱えて喚く男を通り過ぎ、先ほど詰め寄ってきた小男の手前で、スフェノスは足を止める。
「あと30数える間に、君たちは呼吸が出来なくなって意識を失う」
むせ返る男たちを見下ろし、彼はゆっくりと、諭すように唇を動かす。
「僕の主へ、誠意ある謝罪が出来た者から許してあげるよ。できないようなら、そのまま死ぬといい」
最後の一言で、ようやく我に返った。
呼吸ができないのにどうやって謝罪をしろと。いや、つまりはそう言うことだ。
シオンは慌ててスフェノスの腕を取った。
「ま、待って下さい……!」
「どうかしたかい、シオン?」
「そこまでしなくて、良いですから……!」
「……そう。君がそう言うのなら」
スフェノスは渋々、仕方なく。見えない何かを払った。
ひゅう、と。深く息を吸い込む音がいくつも重なる。1人がもつれる足で逃げ出した。2人、3人と。つられて細い路地へと逃げ込んでいく。最後に悪態をついて、腕を抱えた大きな男の背が、曲がり角に消えた。
気まずい空気は、ほんのひと時の間。次にはのどかな喧騒が戻ってくる。先ほどまで足を止めていた人々は我関せずと、足早にその場から立ち去っていく。
「シオン?」
彼女の手には冷や汗が浮かんでいた。スフェノスの腕を掴み、シオンは大股で歩き出す。肌寒いせいだろうか。掴んだ手首からは体温が感じられなかった。
名を呼ぶ声にも応えず、黙々と歩く。宿にたどり着く頃には、夕暮れが星空へと装いを変えていた。
宿の食堂には酒気が漂い、昼時以上の活気が籠っている。賑やかな食堂を横目に抜け、シオンは階段を上がり、廊下を進み、部屋の扉へ手をかけた。
部屋の扉を閉ざすと、月明りで辛うじてスフェノスの表情が伺える。今だけは、絶えない微笑みが薄気味悪く感じた。彼は首を傾げ、シオンへ問いかける。
「怒っている?」
「怒っては、いませんけど……」
「何かいけなかった……?」
「その、少しやりすぎではないかと……」
彼は目を伏せた。薄暗がりでも、彼の碧眼は光を孕んで煌めいている。
シオンは一息おいて、深呼吸を繰り返した。つい、見入ってしまいそうになる。
スフェノスの返答は冷ややかだ。
「ああいう輩は、痛い目をみないと、何度も繰り返す。君が心を痛める価値は無い」
「でも、あそこまでする必要はない、と思います……。あなたが人を殺してしまったら、大変だし……」
助けてもらった身で、このようなことを言うのは心苦しい。けれども傍観する訳にもいかなかった。
言葉を濁すシオンに、スフェノスは目を瞬いている。
「僕を心配してくれているの?」
「だって、あなたは私を助けてくれたのだし……」
言葉はそこまで吐き出されて、残りは喉で詰まった。2本の腕に引き寄せられ、胸に顔が埋まってしまっている。
この部屋で目覚めてから、驚くことばかりだ。
長い沈黙が続き、時間の進みも分からない。
「ありがとう」
今にも消えそうなか細い声だった。その声には聞き覚えがある。失くした記憶の一部だろうか。
反応に、困ってしまう。
「夕食をもらってくるから、シオンはこの部屋で待っていて」
口を挟む暇もなく、彼はシオンを残して部屋を出て行った。生憎と、前髪で表情は見えない。シオンは喉に詰まっていた言葉を、ため息へと変える。
一人残された暗い部屋の中を、月明りを頼りに歩いた。テーブルへたどり着くと、中央にランプが置いてある。が、火をつけるものは見当たらない。
シオンは重力に身を任せ、椅子へ腰を下ろした。窓の外から月明りが絶えず部屋を照らしている。テーブルへつっぷすと、どっと疲れが全身を巡った。
そう、自分は病み上がりではなかったか。
今さらそんなことを思い出したシオンはストールを体に巻き付け、重くなる瞼に従って瞳を閉ざした。
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