スペア未満

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 仕事を終え、バスで最寄駅に着いたのは午後五時半。いつもと同じ時間。朝降っていた雨は止んでいたけど晴れてはいない。雲はないものの灰色一色で、空を見ていてもなにも面白くないし、開放感も味わえない。  わたしは近所のスーパーに入って、夕食の材料を買うことにした。この時間だと、値下げしている商品が多い。ワゴンに入った肉や魚を一瞥すると、半数が五割引きの赤いシールを張られたものだった。鶏胸肉入りのパックを手に取り、消費期限を確認すると、今日の日付になっている。少しがっかりした。ひとり暮らしで、今日中に調理できる肉は一パックが限度だ。消費期限当日の肉を冷凍保存しても、あまり美味しくないだろうし。  母と一緒に暮らしていたとき、わたしは買い物係を担っていた。よく夜のスーパーに行き、腐る直前の大幅値下げされた生鮮食品を何パックも買い込んでいた。母の食べる夜食と、翌日の朝食用だ。  母は、太って痩せてを繰り返すタイプだった。タイプ、というより、体重が五キロ以上増えると我に返って、慌てて一週間茎わかめと水だけ摂取するダイエットをして無理矢理体重を落とすのだ。わたしはその、母の極端な感じが狂気じみていて怖くて嫌だった。近づきたくなかった。だからわたしは、高校を卒業したと同時に家を出て自立した。  今でも思い出す。キッチンシンクに黒い45mlのゴミ袋を口を広げた状態で敷いて、その中にゲロを吐いていた。ゲエゲエ言っていて顔色も悪いから、大丈夫? と声をかけたら、見るんじゃないわよ! あっち行ってなさい! と怒られた。口元には食べたものの切れ端がついていて、こっちまで吐き気を催した。茎わかめに飽きてストレスが爆発したとき、決まって母は大食いして嘔吐していたのだ。父はそんな母を見限り、わたしが中学校に入った頃、家を出て行った。当たり前だと思う。父はわたしについてくるかと聞かなかった。母とわたしが一緒くたにされているみたいで不愉快にはなったけど、不思議と寂しくはなかった。  母はうまく吐いていて、ゴミ袋の外に嘔吐物を飛ばすことはなかったけど、事後必ずスポンジでシンクをピカピカになるまで磨いていた。そこが光を反射するほど綺麗になっているとき、わたしは台所のある一階にいるのも苦痛になって、二階にある自分の部屋に閉じこもった。
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