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「秋ちゃんの気持ちは固いんだね」
虚ろな目をして、彼女が確認してくる。
一秋はまた「ごめん」と言った。
長い沈黙が落ちた。聴いたことのあるクラシックが一曲流れ切ったあと、朱音が席を立ち、何も言わずに店を出て行った。
一人になった一秋は、さっきまで彼女が座っていた椅子を眺めて、それからテーブルの上を見た。飲みかけのアイスコーヒーと、くしゃくしゃになった婚姻届が一枚。
感傷に浸っている暇はなかった。一秋は喫茶店からすぐにアパートに戻り、引っ越し屋が来るのを待った。
もう引っ越しはキャンセルできない。アパートの退去は決まっているし、引っ越し先の鍵も、不動産屋から受け取っている。敷金礼金も払っていた。
新居は隣の区にある1LDKのアパートだった。そこで朱音と暮らしてお金を貯めて、いつか一軒家を買おうと話していた。
一人で暮らすことになるとは――と、一秋はガランとした新しい部屋に、一人佇んでいた。
そのときインターホンが鳴った。まだ引っ越し屋がここに来るには早い――そう思って、ドアフォンを確認する。
映っていたのは、加納の姿だ。
彼には、新しい住所を教えていた。彼女と別れたら来てくれ、と伝えていた。
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