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別れを切り出してからの展開は早かった。あっという間にケリがついた。別れよう。わかったわ。これだけだ。喫茶店を出ると直子は遠ざかり、俺は背を向けて家に戻る。戻って玄関の上がり口に座り込み、靴を履いたまま今日の晩飯のことをぼんやりと考えた。時刻は午後二時くらいだろうか。昨日までの大雨がうそのように暖かな日差しが玄関の磨りガラス向こうに見える。静か、というか虚無だけが漂う空間に思える。ああいや虚無なのは俺自身か。…と、玄関の引戸の向こう、焦げ茶色の物体が近づいてくる。何だ? それは明るい場所に来ると丸くなった。実に愛らしいサイズ感と形で丸まり、そこで動かなくなる。そうか…わかった。たまにやってくる野良猫だ。向こうはこちらの存在に気づいていない。こちらとしてもひなたぼっこを始めた猫に何もする気はない。
直子に別れを切り出したのは俺の身勝手からだった。理想の女が現れたのだ。以来直子に対する興味は薄れてしまった。俺が勤めるセレクトショップはレディースとメンズ両方を扱っていて、二ヶ月ほど前からその女をレディースのコーナーで三回くらい見かけたことがあった。しかし遠目であり『少し年下で二五辺りだろうか。一般人レベルで言えば上位の美形だな』くらいの印象しか俺は持っていなかった。それが先週のことである、彼女は来店するとふらっとメンズコーナーにやって来て、陳列棚をぐるっとかるく見て回った。俺はその時初めて近くで彼女を見た。びっくりするくらいの小顔。黒髪のショートヘアー。一見して分かる“付き合う可能性0”の感覚──同時に理解し難い現象が俺に起こった。俺の中でじわじわと起こっていった。女の存在そのものが体に飛び込んできたのだ。体の奥に奥に食い込んでくる。それは強引に言葉にすれば幸福感だった。当惑と混乱のあと暫くして俺は理解に至る。あの女は〈理想の女〉だと。
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