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願わくは 花の下にて 春死なん
そのきさらぎの 望月のころ
「西行ですね」
初春の緩んだ風に乗って届いた、かすかな声に答えてしまったのは、私もその和歌が好きだから。
錆びのついたパイプ椅子にしゃんと背筋を正して坐していた一葉夫人は、驚いたように目を見開いた。
「お若いのによくご存知で」
「ババくさいとはよく言われますが、私に言わせるなら一般常識です」
真面目くさった顔で吸引器を片づけながら淡々と話す私を、一葉夫人は口元に微笑を刻みながら見つめる。そんなありきたりな表情でも、一葉夫人が浮かべると妙に貫禄があるのは、私の前に現れる彼女がいつも着物姿だからという理由だけではないはす。
無意味な緊張を強いられる私の前で、一葉夫人は十字絣の塩沢紬の袖で、優雅に口元を隠した。
「あなたって面白いのね」
褒められている気がしない。だが、私のくだらない一言で彼女の憂いが少しでも晴れるなら、それで良しとしよう。
「どうも」というそっけない返事をしながら、手際よくバイタルセットを準備していく。甚だ心外ではあるが、変人と評されることの多い私の器量では、会話の先を誘導する器用さは持ち合わせていない。よって、私と一葉夫人の間を流れるのは規則的な機械音のみである。
体温計、血圧計、サーチレーションモニター、聴診器。一連の商売道具を目で追っていた一葉夫人が、ふ、と視線を窓の外へ向けた。
「主人の口癖だったんです。西行のように、愛する花の下で潔く死にたい、と」
私が聴診器を構える先には、仰々しい機械類に繋がれた枯れ木のような老人――――平野啓太郎がいた。
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