願わくは、花の下にて

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 平野啓太郎という夫君の不運は、救急車が当院――――地方中堅病院として365日24時間無休で明かりを照らす、大島病院の駐車場に駆け込んだ以前より始まる。  二年前に体調を崩し、ついた診断が扁平上皮癌ステージⅡb。本人の強い希望で、外科的にも内科的にも一切の治療を行わない方針となった。仮に本人が治療を希望したからといって、腫瘍の位置的に完全切除は不可能だったし、化学療法を行ったからといって年齢的に耐えられたかどうか定かではない。あくまで自然なかたちでの最期を望む啓太郎氏は、もしもの時は慌てず騒がず静かに看取るようにと、奥さんに厳しく言いつけていたらしい。  薬漬けの毎日になるくらいならと、啓太郎氏は限りある余命を有用に使う道を選んだ。そうして、容態が急変したのは、桜の樹に蕾が膨らみ始めた頃のこと。  彼の第一の不運は、急変した時に奥さんが不在だったことだ。いくら自然なかたちでの最期を望むからといって、息ができない恐怖を自宅で落ち着いて過ごせるわけがない。啓太郎氏が119に助けを求めたことはごく自然な流れといえよう。何とか自力で救急車を呼んだようだが、救急隊員が踏み込んだ時には既に呼吸停止の状態だったという。目の前に息が止まった人間がいる。ならば、救急隊員がとるべき行動は一つ。気道確保のための気管挿管だ。  そんなわけで啓太郎氏が我が救急外来に運び込まれた時には既に、口には気道確保のためのチューブが突っ込まれていた。
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