ひとりゆとりみとり

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「あの上だ」  もう答える気力もなかった。老人の歩くペースはまったく落ちない。 「おい、聞いてるのか。あれを登ったら頂上だと言っているんだ」 「……頂上」  彼はぼんやりと顔を上げる。老人は左手を上げ、目の前の頂を真っ直ぐに指していた。 「え」  急斜面だった。これまで登ってきた道が笑えてくるくらいの角度をぽかんと見上げる。左右が崖のようになり、真ん中だけが残った道。 「最後の難所だ。あの先に頂上がある」 「ま、じで」 「いくぞ」  立ち尽くす彼を置いて老人は再び歩き始めた。こんな急な坂登れる訳がない。そう言いたいのに声も出なかった。彼は離れていく背中に置いていかれないよう、仕方なく後を追った。 「日の出が近い。急げ」  急げと言われても。彼は必死だった。遠くから見ていたよりもずっと傾斜がきつい。更に、足元は今までのような砂利道ではなく、さらさらとした細かい砂が密集している。少し角度を誤ると簡単に足を取られた。どう考えたってここまで疲れ切った状態で登るようなものではない。しかし文句を言う余裕もなかった。息が苦しい。体中が重い。空が少しずつ明るくなっているのがわかる。老人の背中はどんどん遠くなる。とにかく今は進むしかない。焦る心と裏腹に、彼の足は驚くほどのろのろとしか動いてくれなかった。 「息を吐け」  不機嫌そうな声が降ってくる。わかってるよ、と彼は思った。気づけばまた呼吸が不規則になっていた。深く深く息を吐き、勝手に肺が空気を吸い込む。止まりたくなる足を無理矢理動かす。もう一度深く息を吐く。一歩踏み出す。彼は体勢を崩した。砂に足が取られ膝を強かに打つ。同時に体を支えようとした右手がおかしな角度で曲がった。老人は何も言わなかった。少し前で、ただ歩いている。彼は立ち上がった。もう何も考えなかった。 「着いたぞ」  老人の声に、彼は無反応。ぶるぶると震える太股の筋肉は体を支えてはくれない。がっくりと両膝をつく。 「間に合ったな」  隣に腰を下ろした老人は嫌になるくらい変わらない声で言った。あちこちで歓声が上がる。雲の向こうから一筋の光が彼の目を射抜いた。 「ご来光だ」  それは美しい光だった。白い雲の上、仄暗く広がっていた空に色がつく。瞬きをする間にも目の前の光景は刻一刻と色を変え、輝き、形を変えた。
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