ひとりゆとりみとり

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「死ぬんじゃなかったのか?」 「え?」 「頂上で死ぬと誰かが偉そうに語っていた気がするが」 「ああ……」  何を言っているんだ、と彼は思った。こちらは疲労困憊して息をするのも辛いのに。薄い空気もこれまでの散々な道のりもものともせず立っている老人は、やはり、化け物だった。 「いや、もう、それどころじゃないです」 「無茶苦茶だな」  今はただ清潔な布団でぐっすり眠りたい。これから下山しなければならないことに気づいて、彼は気が遠くなりそうになった。しかし、自分の足で下りなければ清潔な布団に入ることもできない。彼はストックを握り直した。 「俺だったらまず靴紐を結び直すな」  面倒臭そうに老人が言った。親指が示す先、真っ黒に汚れた登山靴は確かに靴紐が緩んでいる。彼は大人しくその言葉に従った。 「あとは日焼け止めだ、紫外線をなめるなよ。まさか持っていないのか?」 「や、ありますけど……」  何年前に買ったかもわからないどろりとした液体を塗りたくる。慣れない感触に顔を歪め、もう一度準備を整えると、疲れ切った体に鞭を打って立ち上がった。 「じゃ、頑張れよ」 「え?」  彼は中腰の体勢のまま振り返った。 「下りないんですか?」 「俺はここで少し眠っていくからいい」 「そう……ですか」  彼は急に心細くなった。てっきり下山まで付き添ってくれるものと信じていた。しかしよく考えれば、老人が彼に付き合わなければならない理由などどこにもない。 「登るときとは逆に、かかとから足を下ろす。歩幅は小さく、焦らずゆっくり進むこと。これさえ守れば、まあ、下りはなんとかなる」  老人は腕を組み背中を岩に預け、既に居眠りの体勢に入っていた。だいぶ軽くなったリュックを背負い直し、老人に向けて挨拶をしようとして彼は躊躇った。共に居たのはほんの数時間のことなのに、もうずっと一緒にいたような気分だった。 「あの……本当に、ありがとうございました」 「いいからさっさと失せろ。俺は寝る」 「おやすみなさい」  返事はなかった。彼は歩き出した。黒い道の向こう、どこまでも続く雲海に向かって進む。一度だけ振り返る。人影はぴくりとも動かず、銅像のようだった。かかとから、小股で、ゆっくり。彼は頭の中で何度も繰り返しながら、一人、ごつごつした道のりを下りていった。
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