ひとりゆとりみとり

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――――― ――――――――――  寝返りを打とうとして、彼は顔を顰めた。体が異様に重い、まるで自分のものではないみたいだった。力を込め、無理矢理体勢を変える。背中から腰にかけて残る引き攣れるような痛みと気怠さ。太股はかちこちに固まって何の役にも立ちそうにない。右手で目元を擦る。またも痛みが走って彼はため息をついた。瞼に涙が沁みたのだった。紫外線をなめるなと日焼け止めクリームを勧めてきた昨日の老人の言葉を思い出す。そういえば、瞼の上なんて塗ろうともしなかった。鏡を見れば、きっと、パンダのように目の周りが赤くなっていることだろう。彼はうんざりした。 「――それでは次のニュースです」  何とか布団を這い出して、いつものようにテレビをつける。何時に寝たのか記憶が定かではないが、既に夕方のニュースが始まっていた。 「昨日午後一時頃、『富士山頂付近で男性が倒れている』と110番通報がありました。救助隊員が駆けつけましたが、男性は既に意識がなく、死亡が確認されました」  半分閉じていた彼の目が見開かれる。昨日、と言った。ぞわりと首の後ろのあたりが冷える。もしかしたら、自分が登る横を通り過ぎていった人々のうちの誰かかもしれない。富士山頂で死のうとしていた自分は、結局、死ぬことを選ばなかった。しかし本来ならば、今こうして何気ないニュースのひとつとして死亡を報じられていたのは彼自身だったはずなのだ。 「男性はS市在住の60代会社員で、長袖の上着や雨具といった標準的な服装で単独登山を試みたと見られます。F署は夏山でも単独登山は避けるよう――」  彼はぼんやり画面を眺めたまま目元を擦った。ぽろぽろと皮が剥がれ落ちて、着古したジャージに点々と白い欠片が溜まっていく。階下で食事の用意を始める音がした。いつも通りの夕方。ニュースは既に次の話題へと移っている。彼は右の手のひらをまじまじと見つめた。親指の付け根、尖った岩を掴んだ辺りに不格好な切り傷が膿んでいる。死ななくて良かった。おかしなことに、このときはじめて、彼は心からそう思った。思い切り両手を上げて伸びをする。忘れかけていた筋肉痛があちこちを刺激しおかしな声が出た。今日は寝ていようと彼は心に決めた。もう一度全うに生き始めるのは、きっとそれからでも遅くない。 End.
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