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やって来たのだから、二十一世紀を通り過ぎたからといって唐突に時代の変化が訪れるのも、整合的な論理ではない。新世紀、といっても幾星霜ではあるが、ミレニアムという冠が俺にまやかしを与えていたのだろう。
目に映るものが全てだと思ってはいけない。目に見えないものに本質がある。網膜に映った映像だけを信じるな。視神経を一方的に頼るな。大脳だけに依存するな。虹彩(こうさい)によって光量を調節されたその像の外郭を疑え。闇をまさぐり玉石混淆の真実を自分でまさぐり出せ!
と、力強く納得してみても、目の前に見えていれば、俺は単純になびいてしまう。実存性など関係ない。実際に目に見えるという事は、目に見えるそれ自体の存在を肯定してしまう気にさせる。「いる」や「ある」よりも、時として目に「映る」ことの方に依拠してしまう場合が多い。唯心的な見解に似ているかも知れないが、それとは違う。見えているものが俺にとっては実体であり、それに対して思惟する事もなければ、意義も求めようとはしない。たとえ「無く」とも見えればそれだけでいい。それで存在として成立するから。それともハイデガーやサルトルの実存哲学を深く学んでいれば、また違った考えも出てきたかも知れない。
だが、今はまだそれで良いと思っている。
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