第1章

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顔と顔とをうちよせて あゆむとすればなつかしや 梅花の油黒髪の 乱れて匂にほふ傘のうち 島崎藤村「傘のうち」(『若菜集』一八九七年)より  五月も終わり近づいてくると晴れた昼間は結構暑くて、もう夏だろうと言いたくなる。街中では「冷やし中華はじめました」という張り紙が出はじめて、かき氷が恋しくなってくるのが人情だ。  本日何杯目かわからないコーヒーフラッペに特製シロップを掛け回しながら、義経は口をへの字に結んだ。別に不満があるのではなく、集中したときにするくせだ。  義経が生まれるより前から夏場のヒーローであるマシンが削る氷は繊細で、シロップのかけ方がまずいと可哀想なくらいに見窄らしくなってしまうのだ。バイトを始めて二度目のシーズン、失敗は極力減らしていきたいところである。 「おー上手くなったね、ツネ君」  喫茶ポーラスターの店主で、義経の雇い主でもあるマスターが言った。口髭を蓄えたマスターは義経の父と同級生だったらしい。が、物心つく前に死んでしまった父の話をマスターとしたことはない。義経が自分の父について言えることは、ネーミングセンスがゼロだったということくらいだ。 「いいえ、まだまだです」  氷とシロップの温度差と、シロップそのものの質量を受けて、口の中で解けるように消える氷の山は左右非対称になってしまった。丸い器のどの確度から見ても、氷が同じ形に調えるのが当面の義経の目標である。 「それ運んだら上がってくれていいよ。もうすぐミサちゃんも来るだろうし」 「はい、ありがとうございます」  ミサちゃんさんはポーラスターでバイトをしている大学生だ。夕方から夜のシフトが多いので、義経と入れ違いになることが多い。  奥のテーブルの客にブレンドコーヒーとコーヒーフラッペを運び、義経はそのままバックに引っ込んだ。食材のストックが置いてあるスペースを抜けた先に小さなロッカーが三つ、並んでいる。一応、更衣スペースと思われるが、上着とエプロンを替えるくらいしか着替えないから、主な役割は荷物置き場だ。  義経は真ん中のロッカーを開け、つけていたエプロンを掛けた。代わりに紺色のブレザーを取り出す。ネクタイは元々、ポケットの中だ。
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