第1章

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 義経はブレザーに袖を通してから、ロッカー扉の内側についている小さな鏡を覗き込んだ。バイト中は無造作ヘア風に乱しているのを手櫛でちょっと整える。髪が左側にむかって靡いてはねるのは癖毛だからどうしようもない。  本日は水曜日、五時間目まで授業。その後、二時間バイトをして帰宅するところ、と、設定をおさらいするのも忘れない。  本当はお昼を挟んで六時間たっぷり働いたが、兄には内緒だ。兄は、朝、八時前には家を出る義経が、まさか学校に行かないで街をうろついていることを知らないからだ。  かれこれ一年以上、義経は学校に足を踏み入れていない。  義経は校章の入った通学用かばんを肩から掛けてからタイムレコーダーをおした。一日がんばった充実感ががしゃんと記録された。  ポーラスターの裏口から出ると、外はまだ十分に明るくて暑かった。夏至に向かって行くのだから、一年で一番昼間が長い時期である。  今年の夏も暑くなるのかとうんざりしながら、義経は歩き出した。ポーラスターから自宅まで、歩いて十分ほどの距離である。  義経はいわゆる古書店街で育った。都営新宿線の駅を背にして白山通りを水道橋方面に歩いていくと、グレーっぽい小さなビルが見えてくる。地上三階地下一階の建物は、住所表記上、榊ビルと称されている。  一階と地下はテナントとして他の人に貸していて、二、三階が義経の家だ。間貸し家賃が榊家の収入のすべてだ。今年三十歳になる年の離れた兄は働くことができない。  そろそろ家が見えてくる頃合になって、義経は進路前方が騒がしくなっているのに気がついた。  人だかりがあって、隙間から立ち入り禁止の黄色いテープとパトランプの赤が覗いて見えた。 「事件だ!」  義経は目を見開いて、小走りになって野次馬にくわわった。  すみません、通してください、と小声で繰り返して人だかりの最前列に出る。制服姿の若い警官に睨み付けられたが、気にしない。  テープの向こう側、歩道と車道の一部がブルーシートで作られた簡易壁に囲まれていた。事故か事件か、とりあえず死傷者が出たのは間違いない。 「おばあさんが死んだみたいなんだよ」  興味津々で背伸びしていると、隣にいたおじさんが教えてくれた。 「交通事故ですか?」 「自転車とぶつかったらしい」
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