第2話「ランダム・ウォーク」

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あの経験は夢だったんじゃないかと思う。しかし右の拳はまだ痛む。そして私の拳が痛んでいるのだから彼の口内もまだ痛んでいることだろう。 よくよく考えたら殴ったのは悪かったような気になって、ドクター・カイには帰艦してから謝った。彼の方は彼の方で結果的に人工知能任せでいいと言ったことが嘘になってしまったことを、口の中が腫れているのか非常に喋りにくそうに謝ってきた。 そして彼は今後のことについて「提案」してきた。もしまたあの化け物が現れたら再びトライアルに乗って戦ってほしいこと、あの化け物やトライアル、ハイ・カキンゼーやふるさとKnowsThem制度については秘密にしてほしいこと。 彼曰く、彼が人類の宝と呼べる頭脳を持っていて私がただの凡人であっても、基本的には人間同士対等な立場であるのだから、これは命令でなくて提案だ、ということだった。そういう考えでいるあたり、高圧的で傲慢なところはあるが悪い人ではないのだろうと思う。好きなタイプではないが。 宇宙艦に損害を与えようという敵意を持った存在の実在が広く知られることは艦内の社会システムに混乱を起こすかもしれないので、今日のことは手の込んだ避難訓練だったことにするとマザーは決めたらしい。そういうわけで私には実際のことは秘密にしてほしいということだった。 もっとも私がロボットに乗ってあれを撃退したんだと言ってもマザーの完璧な情報統制以上の信憑性を出せるはずもないし、わからないことが多すぎてそもそも言うつもりもない。ハイ・カキンゼーやふるさとKnowsThem制度にしても同様だ。後者はすぐに承諾した。 しかし、問題は前者だ。 「またあれが現れるかどうかはわからない。君が頻度主義者かベイジアンかは知らんが、前例もなく今のところ一回だけ起きた事象に対してあれこれ言えないな」とドクター・カイはよくわからないことを言った。私の選択に何の影響も及ぼさない情報、戯言だった。 私は、しばらく考えさせてほしい、と言った。ドクター・カイは、「あいつが来なければどっちを選んでも選ばなくても結果は変わらないからな、まあいいだろう。別候補の選定は進めておくが、そのときが来たらまた聞こう。考えて決めるのも、コインで決めるのも、君の自由だ」と言った。
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