第一章 飢え

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 何軒かの隣近所の家を過ぎ、自宅前に着く。車を二台程停められる駐車スペースには、父の乗るシルバーのワゴン車が一台だけ、ポツンと停まっていた。鍵を開け、ゆっくりと玄関を開く。 「ただいま」 「おかえり真子。今日は早く帰れてさ」  エプロン姿の父が夕食の準備をしつつ迎える。しかしその声は平坦で、今朝以上に力がない。母がこの家を去ってから十年あまり、男手一つで真子の養育と祖母の介護を続けている。 一見理想的な父親に見えるが、その生き方は不器用極まりない。異性である娘に対して深く干渉しようとはせず、日々の会話もノルマじみた形式的なものに留められる。そんな中で不意に発せられる言葉は恐ろしく冷淡で、他人行儀だった。  更に、祖母の介護を施設やそれ以外の誰にも頼ろうとしなかった。金銭的な理由よりも、私情に基づく判断であった。    唯一の例外として真子も介護を手伝ってはいるものの、そうした父に対して意見する事は一度も無かった。問題を抱えた一人娘として負担を強いている事に、酷く負い目を感じていたからだ。 「今日はお父さんが全部作るから、真子は二階で待ってなさい」 「ありがとう、お父さん」  いそいそと階段を上がり、子ども部屋のベッドに身を投げる。傍らには幼少期からの宝物である、茶色で丸々としたテディベアがあった。 「くまこ……」  「くまこ」と名付けられたそのテディベアは、いつもと変わらぬ愛らしい丸顔で真子を見つめる。量販店の名も無き既製品だったそうだが、どのようにして手に入れたかは真子も覚えていない。本来つけてあるはずのリボンが無く、見る者にどこか不完全な印象を与えていた。  しかし真子はそんな事は一切気にせず、長い間愛を注いできた。そんなくまこを抱きしめて眼を閉じていると、いつの間にか眠りの世界に落ちていた。
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