第一章 飢え

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 「セピア色の記憶」と呼ぶにはいささか鮮明な、記憶を模した夢の世界。  陽光の差す子ども部屋に、カラフルで愛らしい玩具や絵本が散乱する。手元には、今と変わらぬくまこの姿があった。本棚やカラーボックス、窓や電灯が高く見える。真子は幼少期の夢を見ていた。  幼い日のドアの向こうから、在りし日の母の声がこだまする。優しい声で、真子を呼ぶ。真子は目いっぱい背を伸ばし、ドアノブに手をかける。しかし、どれだけ力を入れても、ドアは頑なに開こうとしない。まるで外側から鍵がかけられているようだった。  真子は目に涙を浮かべ、母の名前を呼ぶ。しかし母はまるで応じようとしない。気付けば日は傾き、小さな部屋を夕闇が満たしていた。  真子はすっかり諦め、ドアノブから手を放して元いた場所に倒れこむ。ふと床に散乱していた玩具類に目を向けると、それらは出来の悪い間違い探しのように大きく姿形を変えていた。  くまこの胴体は刃物でえぐられたかのように無残に開かれ、真っ白な綿が辺りに飛び散っていた。プラスチックのミニカーや魔法のステッキはバラバラに砕け、その残骸は油膜のように毒々しく変色していた。お気に入りの絵本は意味不明な文字や数字の羅列と、常軌を逸した落書きで埋め尽くされていた。  やがて日は落ち、闇が視界を覆う。闇の中で何かが蠢く。蟻やムカデに羽虫やゴキブリ、大小様々の虫が洪水のように子ども部屋を、真子の身体を蹂躙する。絶叫し、母の名前を連呼するも、何も反応がない。視覚と触覚が黒く塗りつぶされ、気を失いかける。  その時脳裏ではっきりと、愛しいあの人の声が響いた。 「不良品」
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