たとえ、言われても。

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「……面白いメニューですね」 かろうじて出た絵美里の言葉に、マスターは 「さっぱり意味がわからないでしょう。けれどもこのコースを終えるころには、お嬢さんはきっと今までと違う自分に生まれ変わってるはずです」 と答える。 「あの。この店は、忘れたいことを忘れさせてくれる店だと聞いて伺ったのですが」 「はい。昔は年輩のお客様が多かったんですが…ここ最近は、お嬢さんのように若い女性も忘れたいことが多いようで。おいくつですか?」 「若いといっても…もうすぐ30になります」 「じゅうぶんお若い。それでは、さっそくコースを始めましょうか」 マスターの合図で、少女がトレーをテーブルに運んできた。最初のメニューは、「記憶」と書かれていたが……。木のコースターに置かれたものを見て、恵美理は思わず「えっ」と驚きの声を漏らした。 それはグラス一杯の水だった。 「あ、あの…これって」 「そうです、水です」 マスターがカウンター越しに答える。 「北海道の京極(きょうごく)から送ってもらった湧水なんですが……この水にはね、魔法をかけてあるんです」 「はっ…?魔法っ?」 「僕は白魔術を勉強した経歴がありましてね。まぁ、それは信じてもらえなくても結構です。それより先入観抜きに、素直な気持ちで飲んでいただきたい」 「はぁ…」 「飲むタイミングについては誘導します。最初に目を瞑ってください」 水を飲むのにタイミングがあるのか。それに目を瞑るって……?恵美理は多くのことに疑問を抱きながらも、ここまで来たからからには後には引けない。指示に従うことにした。 無音だった店内にBGMが流れる。ヒーリング曲というやつだろうか、小川のせせらぎに鳥のさえずり、ゆったりとしたオルゴールのメロディが聴こえる。 「……佐藤恵美理さん。あなたが『忘れたい』と思っていることはなんですか」 マスターが穏やかな声で問いかけた。 「……言葉です」 「言葉?」 「はい。忘れられない言葉があるのです」
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