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スッと、親指に傷がついた。包丁の刃に沿って綺麗な傷が指につく。皮膚が切れ、傷口からジワリと血が滲んできた。
「あら?」
不思議な感覚だった。傷ついた指先を見ているというのに、少しも痛みを感じなかった。傷口が浅かったのか、それとも本当に痛くないのか。
私は親指を押さえつつ居間の方に目をやる。居間では私がケガをしたことなど少しも気付いていないセールスマンが大人しく待っているのが見えた。
(どうせ、脅かすのならもう少しオーバーな方がいいかしら)
親指一つの小さなケガぐらいでは説得力にかける。例えば、包丁を扱っている時にリンゴを持っていた手を滑らせてこういう風に手のひらをスパッと切ってしまったとか。いえ、これでもまだインパクトが薄い気がする。だって、左手の手のひらを切っても全然痛くない。これでは、痛いという演技ができない。もっと、痛々しさを表現しないと向こうも信じてくれない。
腕でも傷つけたらいいだろうか、それとも、足を、いやお腹、胸----顔なんて傷つけたら医療請求できるかしら?ちょうど、美容整形をしたかったし。
なんとか、楽しくなってきた。次はどこを傷つけようかしら。もっと、もっと、ケガをして血を流せばセールスマンを脅せる。
ケガに対する恐れなど、微塵もなかった。いくらでも傷付けられる。だって、私は少しも痛くないのだから。
「調理以外では使わないよう注意を促したというのに」
セールスマンは半ば呆れたように、そしてすっかりこの様子にも慣れたように言った。
台所では身体を痙攣させ全身に切り傷を負った主婦が嬉しそうな顔をして倒れていた。医者でもない一介のセールスマンでしかない彼には彼女を助けることはできない。せいぜい、出来ることは救急車を呼ぶことぐらい。だが、この出血では助かりそうにない。というより、さっきまでの姿を保ってすらいなかった。
指の何本かは切断され、腕には縦横に走る深い切り傷、刺し傷、腸は引き釣り出され、足は抉られていた。
顔は見るも語るも無惨な状態。親族が見たら卒倒することだろう。
それでも、彼女はどこか嬉しそうに見えた。
主婦の顔を見てセールスマンが呟きをもらす。
「せめてもの救いは何の苦しみも痛みなく“安心”してあの世に行けたことぐらいですか」
完全安心包丁。その名前に、偽りはなかった。
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