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水神が自分のコーヒーカップを持って、テーブルを挟んだ透の向かいのソファーに腰掛けた。
「……ところで、祐天寺くんは私の今までの小説を読んでくれましたか? 」
「あ、はい。たぶん、ほぼ全部……」
何せ透が編集になる前から元々好きな作家さんである。
読書が趣味で仕事以外は四六時中読書に勤しむ透にとって、一人の作家の作品を全て読破するのは容易い。何しろ寝る間も食事の時間さえも惜しんで読書している。
“そんなんだから太れないのよ”と何度母に言われたことか。
「正直、どう思います? 」
「え」
「私の作品について、どう思うか忌憚のない意見をください」
編集者は、時に作家にダメ出しをしなくてはいけない。こんな表現はおかしいとか、もっとこんな描写を入れろとか。
それは、作家さんの尊厳を著しく傷付けるものでもあるが、売れる作品をこの世に出すためには必要なプロセスなのである。
しかし、透はそれが出来そうになかった。
「……僕は先生の作品が大好きなんです。
美しいのに登場人物や景色が目の前に飛び出してくるようなリアルな文章が、僕、堪らなく好きで」
それはまるで、自分が本の世界にいるようで。
「忌憚のない意見って言ったら、いろいろ悪いところも挙げなきゃいけないんでしょうけど……
すみません、僕には無理そうです……」
それだけ先生の作品が好きなんです、と透は付け加えた。
「……ありがとうございます」
ニッコリと微笑んだ水神だが、もしかしたら呆れているのかもしれない、と透は思った。
きっとこんな意見ならファンから死ぬ程聞いているんじゃないだろうか。
だからこそ、編集者から欲しいのは“忌憚のない意見”なんだろう。
「……好きな作品なら言えるんですけどね。
僕、先生が一作だけ出してる時代小説の“細雪の中で”が好きなんですよ。
先生って恋愛小説がほとんどじゃないですか。
その中で時代モノって珍しいなって読んだんですが、あっという間にハマっちゃって。
恋愛要素は少ないから性描写とかも全然ないんですけど、江戸のイキイキした町並みとか、庶民の日常、その中で暗く生きている脱藩した浪人が農民の少年に心を救われていくところとか、もう……」
そこまで話して、透は我に返った。
つい聞かれていないことを話し過ぎてしまった。好きな作品のこととなると、つい饒舌になる。
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