36人が本棚に入れています
本棚に追加
/63ページ
何が起きているのか、分からなかった。
私の目の前で、着物姿の女は体を締め付ける管狐の一匹をその手で掴み、ゆっくりと口元まで引き寄せる。
そして赤い紅を塗った口をニタリと開けて、見せつけるかのように……、
その管狐を、頭から食い千切った。
「う……」
顔色を失った私を悠然と見下ろしたまま、口元を真っ赤な血で染めた女は、再び管狐に喰らいつく。
次々と食い千切られた管狐たちの死骸が辺りには散乱し、血飛沫が飛び散る度に、生臭い血の臭いが立ち込めていく。管狐たちの咆哮が鳴り響く中、女の顔が飛び散った返り血で真っ赤に染まる。
それはまさに……異形の鬼の姿だった。
私は、彼女を知っている。
山深い峡谷の奥にある、百咒峡で初めて会った時から。
私は引き込まれるように、ある洞窟の中へと踏み入った。
滴る水の音。薄暗い静寂。
それでも私は、岩場を乗り越えて更に奥へと進んでいく。
その先に、彼女はひっそりと佇んでいた。
真っ赤な口紅と、透き通るような肌。白い着物に長い黒髪を靡かせたその姿を見て、すぐに彼女がこの世のものではないと分かった。
「……紅咒楼」
私はその怪異の名を呟く。
百咒峡に住むと言われ、人であろうが怪異であろうが、全てを喰らうとされる鬼の化身。
彼女の射抜くような瞳に捕らえられ、その場から動くことが出来なかった。
「……おいで」
赤い紅を塗った唇で誘うと、彼女はその真っ白い指で私の首筋を撫でた。
凍えるような冷気が、全身を覆う。
鮮血の匂いがした。
ここで死ぬのだと思った。
だがいつの間にか、私は洞窟の外に立ち尽くしていた。
陽光の射し込む樹林を見上げ、赤い血の滲む首筋を擦る。
彼女は私を殺さずに姿を消した。
それが何故なのか、分からなかった。
けれどその日以来、彼女の視線を、彼女の鼓動を、彼女の吐息を、私は自分の体の中で感じていた。
ただ私はそれを認めたくなくて……、気付かない振りをしていただけなのだ。
そして今、彼女は再び私の前に姿を現した。
怪異を喰らい尽くす、異形の鬼として。
最初のコメントを投稿しよう!