母の死に目に会えんでから

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 命日 平成二八年三月二六日  血は水よりも濃いと、改めて実感させられました。十九年前に、父方の祖父が亡くなったときも、似たようなことが起こったのを覚えています。 その晩、私は夕食の後片づけを済ませると、持病からくる体調不良に輪をかけた状態に陥り、埼玉の自宅リビングで意識朦朧としていました。何度か鳴ったスマートフォンの着信音に、反応できませんでした。固定電話に、「お母さんが重篤な小脳出血で危篤状態です、」と沈んだ声が留守録音されてようやく、「なんてー」と思わず熊本弁で叫んで飛び起き、受話器を掴み、心に激震を感じながら電話の向こうの姉に状況を尋ねました。  母が実家で倒れ、熊本赤十字病院に救急車で運ばれて臨終の床に就いたのが、午後七時過ぎ。ほぼ同時刻から、私もテーブル炬燵の中で寝込んでいたのです。  姉に促され、電話越しに救急救命センターのベッドに横たわる母に呼びかけました。 「お母さん、お母さん……もう駄目ね。もうちょっと頑張ってくれんね……もうすぐ、来月、四月の頭に熊本に帰るけん、それまで待ってくれんね……」  五十前の父親の徒ならぬ声を聞きつけてリビングにやってきた娘に、祖母が危篤である旨を告げ、電話をかわりました。 「……ばあちゃん……ばあちゃん……死なないで……」  間もなく中学二年生になる娘は、言葉に詰まって大粒の涙を流し、私以上に狼狽えてしまい、声を発することすらできなくなりました。娘から受話器を受け取り、 「お母さん、今日はもう飛行機に間に合わんけんが、明日の午前中になるべく早く熊本に帰るけん、それまで待っといて」  姉に同じ旨を繰り返し、いったん電話を切りました。予期せぬ突然の知らせに混乱して右往左往しながら、極めて効率悪く旅行鞄に荷物を詰め込んでいる最中に、姉から携帯していたスマートフォンに電話が入りました。 「お母さんが午後八時九分に亡くなりました」  危篤を知らせる電話から、僅かに三十分余り。私は脱力しつつ、躊躇いを捨てて鞄に喪服を詰めました。その後、姉や父とともに母の死に目に会った義兄から、数度にわたって打ち合わせの電話が入り、翌二七日に通夜を、翌々二八日に告別式を行うことになりました。
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