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目を開くと、花びらがひらひらと舞い降りていくところだった。
まだ花筏は眼下にあった。本来、私はあそこにいるはずなのに。状況が飲み込めない。
ああ、もしかして、これが天国という場所の姿なのかもしれない。上流から下流へ、ゆらりゆらりと流れていく桃色の筏。頭上の木から、対岸の木から。ひとひら、ふたひら、桃色の流れに参加しようと、花びらがくるくる落ちていく。
穏やかな時間だな、と微笑んだ。やっぱり天国なのかもしれない。
そんな私の陰気な希望は、誰かに抱きかかえられ、右頬をぶたれたことであっけなく潰えた。
「ミユキ! 何してる!」
「……いや、何も」
「ウソ! 死ぬ、いけない!」
今度は左の頬をぶたれた。なんで友人ですらない人物に、2度も平手打ちをくらわないといけないのか、と思っていると、アイシャはまるで背後の桜みたいにぽろぽろ涙を落としていた。面食らっている私の腕を彼女は取り、後ろのベンチへと引っ張っていった。
座るように促され、私は積もった桜を振り払って腰を下ろす。ひんやりした、固いベンチ。頭上から桜が無秩序に舞い降りてくる。無機質で現実的な感触と、無機質へと化していく幻のような桜花。その取り合わせが、なぜか私を涙へと誘った。
「怖かった」
「うん」
「本当は、死にたくなんて」
でも、私の運命は。
「死ぬ、いけない」
アイシャは再度繰り返した。だけど今度の口調は教え諭すようなそれだった。
「私の国では、自殺、絶対にだめ。アッラーの教え、守るため」
私は、アイシャ、あなたのようにムスリムでもマレーシア人でもない。だけど彼女の言葉には、不思議と説得力があった。歴史の荒波を越えてきた絶対的な教えが持つ、厳しさと優しさを、私は確かに感じ取っていた。
「You mustn’t sacrifice your life, for anything」
子供のように頷いた、大学院2年生の春だった。
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