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5、
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ほとんど二十四時間後に、俺は絶妙な古さのアパートに足を踏み入れた。
ここに来るのは三か月前、早朝に逃げ出して以来だ。何とも言えない懐かしさと緊張を抱えながら、何度も来たドアの前に立つ。我知らず握っていた手を開いて、深呼吸を繰り返した。心拍数が速いのは階段を上ったからだけじゃない。
(……ここまで来ちまった)
ブザーを見て初めて、ここまで勢いだけで来たものの、何を言うか考えていなかったことに気づいた。
(会ってくれたとして、それで、俺は……)
多分言いたいことはたくさんあって、けれど実際会ったら、何て言うんだろう。
頭の中でこのブザーを押して、犬飼が出てくる姿を想像する。それだけで心臓が死にそうなくらい早鐘を打って、俺は唇を噛んだ。
(出直す……いや、……いやっ)
帰りたくなる気持ちを奮い立たせて、頭が真っ白なまま、ままよと見もせずにブザーを押す。
部屋の中で気配がして、間もなくドアが開いた。
「……は、」
「こ、んばん、は?」
驚いた顔の犬飼。それを見て俺も驚く。
今までいつ行ったって身だしなみを整えていたのに、今日に限っては違う。
整えず、伸び放題の髭。軽くまとめられていた髪は鳥の巣みたいになっている。服装も上下長年愛用したようなくたびれ方をしているし、おまけに黒縁眼鏡をかけていて、一見すると鍛えられたホームレスだ。
「あ、えっと……忙しかったすか?」
その見慣れない姿にぎこちない視線を向けると、犬飼は勢いよくドアを閉めた。
「へっ」
「いや! ちょっと待ってねカナタくん! まさか来るとは思わなくて、ちょっと人前に出れる格好じゃないっていうかね」
会うことを拒否されたのかとショックを受けていると、ドア越しに慌てた声が響く。それを聞いて今度は俺が慌てた。
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