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幸運
70年の時が経って、僕はまだ、あの防空壕だった場所に縛られている。
「そろそろ帰る」
90にはなっていそうな老婆が、しわがれた声で少女に声をかけた。歳のわりにずいぶん元気そうだ。
「おばあちゃん、よくここに来たがるけど、どうして?」
少女は老婆に問いかける。
「お前があと少し大きくなったら、話してやろう」
不満そうな少女の反応を余所に、老婆は適当にはぐらかす。きっと彼女は、そのことを語る前にこの世を去るだろう。
少女の顔には、老婆の若い頃の、社のしたで生き残ったであろう彼女の面影が、たしかに残っている。こうやって見ると目元の黒子も案外かわいらしくて、将来が楽しみな子だ。
祖母と歩く少女はとても楽しそうで、そこにはたしかに幸せが見える。
あのタイミングの悪さのせいで僕は不幸に遭った。けれど、その不幸は、違うかたちでいつか必ず訪れたものでもある。そして、もしかしたらあのタイミングの悪さがなければ、この少女の幸せはもう少しズレたものになっていたのかもしれない。
桜の樹の下には死体が埋まっている、という言葉があるらしい。
だれだってきっとそうだ。桜の花を愛でるとき、ひとは足元の花弁を踏みつけている。幸せを見るとき、その背後にはいくつかの不幸が潜んでいる。でもそれは決して間違ったことではない。
過去を受け入れて、同じ不幸をできる限り繰り返さずに、未来を愛でるから幸せなんだ。
もう少しだけ、桜の樹の下で、僕は少女と老婆のささやかな幸せを見届け続けよう。
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