命の落とし物

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命の落とし物

「桜の花びらが風に舞うように、君たちひとりひとりも今、この瞬間からそれぞれの目的地を目指す旅が始まるのです。人生とは、命が燃え尽きる最期の時までが旅なのです。すべて冒険なのです。偉くなんてならなくていい。人間らしく自分の心が満たされる世界を目指して、その長い長い旅を楽しんでほしいと思う。本当に卒業おめでとう」  黒板の前で目の周りを赤く腫らした担任はこの日の為に何日もかけて考えたであろうその言葉をすべて出し切ると、今度はクラスの生徒の名前を次々に呼び上げていった。  自分の意志とは無関係に付けられた、私にとって機械のシリアルナンバーを連想させる「名前」という名の記号で呼ばれ、次々と起立していくクラスメイトをまるで映画を観るかのように客観的に眺めているとなんだか眠たくなって、私は視線を窓の外の誰もいない校庭のまだその奥の街並みに移して、このくだらない一瞬の儀式をやり過ごした。  そんな日があったことなんてもう随分昔に感じるほど頭がとろける季節がやってきた。夏だ。  まだ七月に入って間もないというのに、近所の海水浴場は早々と遠方から泳ぎに来ている人たちで賑わっている。屋台やステージも設けられていて、今日も朝から騒がしい程に賑わっている。  そんな今日、私は死ぬことを決意していた。理由は特にない。ただ、誰かの言う事に一々左右されるだけの毎日がとてつもなく面倒で、ダルくて、そして何よりもそんな毎日に逆らうことなく生きる平凡な人たちの波のもっと奥で自分というものを消している私自身が一番の恐怖であり、これ以上生きていても何の希望も感じられなかった。だから死ぬことでせめてもの自己表現として、最後くらい派手なことをしたいと思った。その場に居合わせてしまった人たちにとってはこの上なく迷惑な話だと言うのは百も承知の上。  アパートの屋上へと続く階段を驚くほど無心で上がり、遺書なんて気の利いたものは準備していなかったから、とりあえず立ち入り禁止のフェンスの前に靴を〝それらしく〟並べてみた。こうして見ると、改めて自分はこれから死に向かうのだという気になってくる。しかしながら寂しさも切なさもない。というか、そんなものは人の波に揉まれている間に摩擦で感じなくなっていた。
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