第三章

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 私はゆっくりと体を動かし、すぐ側にいる彼に目をやった。(うつむ)く彼の眉間には皺が寄り、先程までの彼からは想像も出来ない程弱々しい表情をしている。 「匡史?」  彼の腕を掴み、名を呼んだ。彼は堅く口を閉ざし、今にも泣きそうな表情を浮かべる。彼の腕を揺らしてもなお、私の目を見ようとはしない。 「匡史、どういうことよ」  酔いなど、何処かに消えてしまった。混乱しているのは酔いのせいではない。  間違いではないのだろうか。成人式に出席しなかった私への、ちょっと大袈裟な質の悪い悪戯なのではないだろうか。私と慶太郎が付き合っていたことは、このクラスの誰もが知っていたことだ。皆で口裏を合わせて私を騙しているに違いない。慶太郎が私を驚かせるために仕組んだことだろう。そうでなければ、慶太郎が死んだなんてそんなこと言う筈がない。  ただ、もし万が一、彼や彼女の言葉が真実だとしたのならーーー。 「何で、黙ってるのよ」  その問いかけにも応じず、彼は話すことも私の顔を見ることもなく、ただ俯くだけだった。マイキーに視線を投げると、目が潤んでいるのがわかった。唇を噛み締めて、必死に泣くのを堪えている。  周りは押し黙り、この宴の場に似つかわしくない空気が先程から流れている。それはどんどん重くなり、息をするのも苦痛な程に。  何が起こっているのか、誰もわからないのだろう。目の前にいる大親友だった男と、少し離れた位置で私を見つめる彼女以外の、誰も。慶太郎はここに居ない。その理由を皆が知っている。ただ一人私を除いて。  真実は一体、どこにあるのだろうか。 「ごめん」  微動だにしなかった彼が、低く、かすれた声でそう溢した。  一歩、二歩。静かに後退る。私の意思ではなく、勝手に足が動いたのだ。  足元に置いていた自分の鞄を乱暴に拾いあげ、皆の隙間を擦り抜け扉を開けると、靴棚から自分の靴を引っ張り出した。  振り返らず、店の出入口に歩を速めた。店内はざわついているのに、ヒールの音が煩く耳に響く。もう戻ることはできないのだ。あの、何時になく気持ちの良い雰囲気で飲んでいた場所にも、あの楽しかった過去の思い出にも。私は何処にも戻れない。  慶太郎? あなたは今、何処にいるの?
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