エンドロールに口づけを

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 クロがいなくなったのは、ちらつく雪が積もりもせずに溶けた朝だった。  雨上がりにしてはやけに冷える空気の中、その日も変わらずベランダで早朝の空気を汚していれば、小さな背中と大きな荷物の隣人が階下にうつる。 「……珍しいな、あいつ」  どこかへの出張だろうか。朝は弱いのだと散々聞いていたから、思わずそんな独り言が出た。声をかけて手でも振ってやろうかと考えたのはほんの一瞬で、実際には脳からの指令が指先まで届くといったことはなかった。片手に持った煙草の灰が長くなり、いつのまにかぽろりと落ちる。クロだったら、この空のことをどんな風に喩えて言っただろうか。俺も時間つぶしに本を読むことはするけれど、クロはもっと、活字には並ばない独特な世界を見ているような気がしていて、なんとなくそんなことを、曇天に思った。  俺は、クロの名前さえマトモに知らない。  それは向こうも同じことで、クロは、「美濃部」という俺の名字しか知らないのだった。 「そういえば」  今回はサボテンを預かっていない。さして長期の外出ではないのかもしれないなと思いながら、そうだといいと、そんなことを思った。  変わらない毎日が進んでいく。  早朝に起きて仕事に行く俺と、不規則な生活のあいつは、そもそもいろんなことが異なっている。クロが帰ってきたのかもわからないままで、あっという間に時間が過ぎていった。  寒さにかじかむ手をダウンのポケットに突っ込んで、早足に駐車場からエントランスへの階段をのぼる。アパートの廊下はそれなりに簡素で寒々しく、実際コンクリ張りのそこはひやりと冷たい。マジックで殴り書きした名字の入ったポストは大抵スルーするのだけれど、この日は少し、帰宅時間が早かった。心の余裕を安直に示すように、最近開いていなかったポストのダイヤルを回す。かちり、と小さな音の後に、銀色のポストが開いた。
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