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「あの日、私はわけがわからなくて走って家に帰ろうとした。君が呼び止めていたのもわかっていたけど、どうしたらいいのかわからなかったんだ。
夜も遅ければあの天気だ。
傘もささずに一心不乱に走ったよ。
ただ運が悪かった。
私の家の近くは人通りが少なくてね、車が結構なスピードで走ってるんだ。
まさかあの天気であの時間に傘もささずに飛び出してくる馬鹿者がいるなんて思わなかったんだろう。
私は盛大に跳ね飛ばされた。もちろん減速もしていない車と衝突したんだ。助かるはずもない。運転手は真っ青な顔をしていたよ。すぐに事切れてることに気付いたんだろう。
急いでいたんだろうね、後部座席に誕生日のケーキか何かが乗っていたんだ。
犯罪者となることを恐れた彼は私の体を車に乗せて走り出した。
誰にも見つからないように必死になって私の死体を隠すことにしたんだ。」
彼女が何を言っているのか僕は理解できなかった。
それじゃ今僕が会話をしているのは一体誰だというのだ。
彼女は僕を見ると少し笑った。
「信じられないという顔をしているね。もちろんそうだろう。誰よりも信じられないのは私自身なんだから。
自分が目の前に倒れている光景というのはなんとも不思議な気持ちだったよ。何が起きているのかまるでわからなかった。
ただ、痛みも冷たさも何も感じないという事実だけがこれが現実なんだということをまざまざと見せつけてきた。
フィクションでよくある声をあげても聞いてもらえない状況ってやつをまさか自分が体験することになるなんて思いもしなかった。」
そう言って彼女は皮肉っぽく肩をすくめてみせた。
「心残りがあると幽霊になって現世に残るみたいな話、よく聞くだろう?ああ、あれ本当なんだって思ったよ。」
「佐久間さんの心残り?」
彼女は頷き、そして儚く微笑んだ。
「君だよ。森野君。」
「僕?」
「君の絵をもっと見たかった。君ともっと話をしたかった。君をもっと知りたかった。つまりはそう」
そこで言葉を区切ると、彼女は僕に向き直った。
「君のことが好きだったんだ。」
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