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彼が市ヶ谷を去った時に「限りある時間」は終わっている
「限りある時間」のその先は、今度こそ、求めてはならぬもの――
美紗は胸元をぎゅっと押さえた。ブラウスの布地越しに、固いものが指に触れた。
ピンクとオレンジの二色に輝く石。あの人のくれた誕生石の色が、青い海の中で抗う。
あの人は今も東京にいる
だからまだ、終わりじゃない
低い振動音が数回、かすかに聞こえた。
青と紺の合間のような色がかき消え、アルコールを静かに楽しむ客たちの気配と、切なくも穏やかな旋律の音楽が、再び辺りに満ちる。
数秒の間をおいて、美紗は、先ほどの低い音がメッセージの着信を伝えるバイブレーターの動作音だったことに気付いた。膝の上に載せていたバッグの中から携帯端末を取り出して見ると、日垣貴仁からのメッセージが入っていた。
ひと月ぶりに顔を見せた長身の客を、マスターは申し訳なさそうに出迎えた。
「あいにく、ただいま『いつものお席』がふさがっておりまして……」
「取りあえずカウンターでいいよ」
日垣は、付き合いの長いバーテンダーに「いつものを」と言うと、カウンター席に座る美紗の傍に歩み寄った。
「かえって迷惑じゃなかったかな。こんな時間になってしまって」
久しぶりに聞く、耳に心地よい低い声。美紗は、頬がわずかに紅潮するのを感じながら、頭を横に振った。話したいことがたくさんあるのに、言葉が出てこない。
「今日は、珍しい色のお酒を飲んでいるんだね」
美紗の前に置いてある背の高いコリンズグラスは、ピンクとオレンジが交じり合ったような淡い色をしていた。わずかに見える小さな泡が、グラスの中で震えるように光っている。
「マスターが、『今日は甘いもののほうが』って、これを……」
「何ていうカクテル?」
「即興で作ったオリジナルなんですよ」
かすかに照れくさげな表情を浮かべたマスターは、年の離れた二人連れに愛おしそうな眼差しを向けた。
「深く澄んだ青も美しいですが、こういう温かみのある色合いも、鈴置さんにはお似合いかと思いまして」
「何だか、幸せそうな色だね。でも、見かけによらず強いのかな」
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