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8-6 時の境界線
四月に入って四度目の金曜日も、美紗は「いつもの店」のカウンター席に座っていた。彼は来ない、と分かっていて、日垣貴仁の気配がする場所に通わずにはいられなかった。
九時半を過ぎ、楽しげに語り合う客の姿が増えていく。店内をほのかに流れるジャズバラ―ドを聞きながら独り飲むマティーニは、いつにも増して喉に焼け付くような感じがした。美紗は、透明な液体を一口飲むと、目を閉じて小さく息をついた。
「今日は、もう少し甘いもののほうがよろしかったかもしれませんね」
オリーブが沈むグラスの横に、小ぶりのタンブラーが置かれる。
美紗は、カウンターの向こう側に立つ熟練のバーテンダーを見上げた。
「あの……」
「チェイサーです。お口直しのお水ですよ」
灰色の髪をオールバックにまとめたマスターは、当惑顔の美紗に静かな笑みを返すと、別の客のカクテルを作り始めた。大都会の夜景をバックにずらりと並ぶ瓶の中から、三つを選び、それぞれを手際よくシェイカーに入れていく。
やがて、規則正しい軽快な音がカウンターに響いた。
美紗は、上下に大きく揺れる銀色の光をぼんやりと眺めた。バーテンダーたちの洗練された立ち振る舞いを間近に見ることにも、「いつもの席」とは違う方角の夜景を見ることにも、もう慣れてしまったような気がする。
会えない日々が続くことを、あの人はどう思っているのだろう。「いつもの席」で語り合えないことを、共に夜を過ごせないことを、どう感じているのだろう……。
シェイカーを振る音が止む。
一つおいて隣の席に座る年配の女性客の前にコースターが置かれ、その上に、口の広いカクテルグラスがそっと載せられた。マスターが優雅な仕草でシェイカーの中身を注ぐと、縁周りを真っ白な塩で飾ったグラスはゆっくりと深い青に染まっていった。
あの特別なブルーラグーンを思わせる、
あのイルミネーションの海を思わせる、
警告めいた光を放つ、青と紺の合間のような色。
見知らぬ客に出された見知らぬカクテルを、美紗は凍りついたように凝視した。視界のすべてが、青と紺の合間のような色に覆われたかのごとき錯覚に陥る。
『限りある時間を、後悔のないように、お過ごしになってください』
誰かが、そんなことを言っていた。誰の言葉だったのだろう。マティーニの強烈すぎる刺激に酔ってしまったのか、まるで思い出せない。
思い出せるのは、冷たい藍色のイメージと、自分自身が「限りある時間」の意味を承知していたということだけ……。
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