8-6 時の境界線 

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  「武内はあまり話し上手なほうじゃないが、謙虚で優しい人間だ。コツコツやるタイプだから、本当は地域担当部か技術情報専門の9部に配置されたほうが本人には合っていたんだろうが……」 「武内3佐は、1部の、特に直轄チームを希望されていたそうです。日垣さんの下で勤務したかった、って言ってられました。すれ違いになってしまって、一週間だけご一緒できるはずがその機会も逃してしまって、って言って、とても残念がっていましたよ」 「そうか……。そんなふうに思ってもらえていたとは、なんだか嬉しいね」  大きな手が前髪をかき上げる。  その仕草を見つめながら、美紗は胸の内がじわりと熱くなるのを感じた。ピンクとオレンジが混ざり合うオリジナルカクテルを口に含むと、甘酸っぱい柑橘系の味が、焦燥にも似たその熱をますます強くした。 「武内とは過去二回、一緒になったことがあるんだ。彼も要撃(ようげき)管制から情報畑に転向したクチで」 「では、情報関係は経験豊富な方なんですね」 「どうだろうな。彼がこれまで扱ってきたのは部隊レベルの戦術情報ばかりだから。同じ情報業務でも、国際情勢や政治マターの話が多い統合情報局の仕事はかなり勝手が違うと感じているんじゃないかな。情報の提供先も格段に幅広くなるから、ニーズもそれだけ多様になる。そういう意味では、彼は『初心者』と言えなくもない」  グラスを静かに揺らした日垣は、深くため息をついた。 「私も今は、そんな『初心者』の心境だよ。勝手が分からない上に、気安く頼れる人間も近くにいない。上にも下にも知り合いがいる環境で仕事をするのがいかに楽だったか、改めて痛感している」 「いろいろ、大変なんですね」 「まだ愚痴をこぼすほど働いていないはずなんだけどね。……久しぶりに君の顔を見て、ほっとしたのかな」  美紗の胸元で、インペリアル・トパーズが小さく跳ねる。  日垣は、わずかに気恥ずかしそうな笑みを浮かべると、カウンター越しの窓の向こうに広がる夜景へと視線を移した。  二杯目のタンブラーが空になり、氷だけが中でカラリと音を立てる。それをコースターに戻した日垣は、腕時計を見、振り返って暗い店内の奥に目をやった。  衝立がある「いつもの席」にドリンクを運ぶバーテンダーの姿が見えた。 「今日は、いつもの席は無理そうだね。もう少し飲む?」 「いえ……」 「じゃあ、……行こうか」  やがて、長身のシルエットはゆっくりと立ち上がった。  小柄な影がそれに続く。  マホガニー色のカウンターに残された二つのグラスは、しっとりとしたピアノ曲に包まれながら、儚げな色に光っていた。
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