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「お嬢様」
思わず満面の笑みを浮かべそうになるのを表情筋を駆使して堪える。
「車はいつもの場所に停めてあります」
俺は彼女の半歩後ろを歩く。
何が起きても対処が出来る様に。
車に着いて後部座席のドアを開けると彼女が拗ねた顔になる。これもまた、いつもの事だ。
「お嬢様」
「や」
可愛いらしい我儘に弛みそうになる口元を引き締める。
「また、その様な事を」
「私の居場所はユーリの隣だもの」
「嬉しい事を仰る。ですがやはり安全第一。何かあれば旦那様や奥様に申し訳が立ちません」
「ユーリだもの。何かあるなんて有り得ないわ」
やれやれ。
「仕方がありませんね。絶対にシートベルトはしっかりと」
そこまで言った俺は言葉を飲んだ。
彼女の顔が存外、近くにある。
す、と細い白魚の様な指が伸び……俺の唇に触れた。
俺の、唇に。彼女の、指が。
「んもう。ユーリったら心配性ね」
滑らかでひんやりとした感触。
舐めたい。咥えたい。一本一本、丁寧に嬲る様に舐め回したい。
そっと離れる指。感触が消えていくのを追いかけそうになって慌てて正気を保つ。
いかんいかん。うっかり俺の『内なる獣』が目を覚ます所だった。
彼女のこの絶妙な引き際は俺の理性を試しているに違いない。
俺の鋼の精神は彼女の事となると途端に砂上の楼閣と化す。
困ったものだ。
「ユーリ?」
おっと。
「では、どうぞ」
助手席のドアを開けると彼女はそれはもう嬉しそうに笑ってくれる。
これだから、ついつい甘やかしてしまうのだ。
彼女が助手席に座ったのを確認してから、ゆっくりとドアを閉めて運転席へと回る。
彼女がシートベルトをしたのを確認してから自分もシートベルトを締め、エンジンを掛ける。
あぁ、二人っきりの密室。
最愛のお嬢様を独り占め出来る至福の時間。
「お嬢、何か鞄に入ってます?」
人前では『お嬢様』だが普段は『お嬢』だ。
お嬢が『特別な呼び方がいい』とこれまた可愛いらしい駄々を捏ねた結果である。
そう。俺だけが呼ぶ特別な呼び名。
お嬢は何故か頬を染め、鞄を膝に乗せたまま、こっちをちらっと見てくる。
お嬢の視線が頬に感じられて、くすぐったい。
膝に乗った鞄から仄かに甘い匂いが漂い、俺の鼻をくすぐった。
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