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貴方は仕事から帰って来て、いつものように遅い夕飯を食べ、歯を丁寧に磨き、私の淹れた温かい緑茶を飲んでから、布団に入る。
週末の夜で明日は仕事休みでしょう?
たまには以前のようにお酒片手に語り合おうよ、と恐る恐る誘った私を貴方は拒絶するように目を閉じる。
「眠りたいんだ。現実を忘れたいからな」
何も言えなかった。
私達の一人息子は、半年前に交通事故に遭い、意識を失った。
いつ目覚めるかわからない息子の眠り。
それ以来、夫に明るさはなくなった。
その現実から目を逸らすように毎日仕事から帰って来て、味の無いガムでも噛んでいるように食事をし、私と何を話すでもなく、すぐに布団に入ってしまう。
私は、一人、キッチンで買ってきたワインを開けて、グラスに注いだ。
夫は忘れている。
今日は私達の結婚記念日だ。
それも今の彼にとっては忘れたい現実のひとつにしか過ぎない?
いつからだろう。
どんなに強いお酒を飲んでも眠れなくなったのは。
いつからだろう。明るい気持ちで週末の夜を過ごせなくなったのは。
これは、どんな罰なのだろう?
私はただ、夫と息子の為に毎日を幸せに過ごせるように努めてきただけなのに。
主婦として、節約しながら、ただ、二人が快適に過ごせるように掃除をし、洗濯をし、買い物に行き、栄養を考えたご飯を作り、家を守っていただけなのに。
息子が眠りについてしまった後も、貴方が快適に過ごせるように掃除をし、洗濯をし、買い物に行き、栄養を考えたご飯を作り、以前と変わらぬ家を保っていたくて、頑張ってきたのに。
私は昼間、精神科で処方された睡眠薬に手を伸ばし、その錠剤を全て、掌にぶちまけた。
神様はいないんじゃないかと思う。
だって、こんなに頑張ってる私を眠らせてくれないのだもの。
永遠の眠りにつけば、きっとこの苦しい生活は終わる。
私が錠剤を全て飲み込み、ワインをがぶ飲みした時、どこかで電話が鳴ったような気がした。
それは、息子の病院からだった。
息子が意識を取り戻したと。
私を抱き止めながら、携帯に出た夫がそう聞く傍らで私は朦朧とする意識を必死で取り戻そうとした。
でも、駄目だった。
私は息子の目覚めた病院に運ばれ、そのまま永遠の眠りについた。
《完》
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