憂鬱

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憂鬱

 人は死を思った時に初めて生きることの意味がわかると言ったのは誰だったか。おそらく不幸を知った時に何が幸福だったのかが理解できるというのと同じニュアンスなのだろう。しかし誰の言葉だったかと問われると分からない。未だ生を知らず(いずく)んぞ死を知らんは『論語』の章句だから孔子のものだ。生と死の順番が前後しているのはさておき、それらは合わせ鏡だとの認識は遥か昔からあったらしい。生きるためだと言って殺し合う人々の自己矛盾から人生の意義こそが差し迫った問題だと訴えた現代の哲学者がいることも、知識として持ってはいる・・・・・・脳みそに突き刺さる電子音に感覚を麻痺させながら、野田要(のだかなめ)は人生に関する思索を重ねていた。だが、いつしか、誰に向けるというのでもない罵詈雑言が頭の中で大きくなってくる。 「この糞虫(くそむし)が!、とっとと死にくされ!」  そうなのだ、生きることの意味を考えるよりもっと大切なのは、この台が廻ってまわっていないことなのだ。国政以上に傘がないことを憂えた歌があったそうだが、屁の突っ張りにもならない人生論より、回転効率の悪い遊戯台を選んだことの方が、いまは後悔すべき重大事なのだ。すべての元凶はおのが判断の拙さ、だから怨嗟の言葉が口を衝いて出る。当たりが来ないまでも液晶画面が順調に動いているうちは人生を巡る哲学的考察も捗るのに、銀玉がチャッカーを通らず、無駄打ちが続くと焦燥感が増す。そうして世の中に向けられた呪詛の呻きが零れ始める。  毎朝、同じ時間に出社して業務日誌を確認する。営業社員一人ひとりに義務づけられた備忘録兼用の報告書だ。引き継ぎややり残しを担当の当人が確認するだけでなく、仕事の進捗を管理側がチェックするのにも使われる。出社してまずこのノートを開くのは、いわばルーチンのようなものだ。一通りは頭に入っているのだが、至急の用件が飛び込んできたら他は優先度の低い順に意識の外へと追いやられていく。日誌の確認をルーチンに入れておかねばならないゆえんだ。午前中は社内業務で費やされ、午後は取引先の販売店を訪れることが多い。出先では、自社製品の評判を聞いたり、目立つ陳列を提案したり、新しい注文を取ったり、理不尽な苦情にペコペコ詫びたり、どうでもいい世間話に付きあったり、心にもない世辞を並べたり等々。そして時間が余ったからといって銀玉遊技場に向かう。
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