第一章  朱夏《しゅか》

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   第一章  朱夏(しゅか)      1  駅前の大通りから公園へと入る出入り口には、厳しい表情の警官達が門番のように立ちはだかっていた。  立ち入り禁止と記された幅広の黄色いテープに、バリケードのように道を塞ぐパトカー。その向こうには、ブルーシートの目隠しが陣幕のように張り巡らされている。  いつものように公園を通勤時の抜け道として使おうとしていた人々は、回れ右を強要され、好奇心に満ちた眼差しをブルーシートの向こうに投げた。 「何考えてるんすかね」  ワイシャツの袖を二の腕まで捲り上げた若い刑事が、暑苦しく背広を着込んだ先輩刑事に小さく耳打ちした。  憤慨するようなその口調に、先輩刑事は無感動に「何がだ?」と切り返す。 「何がって、全部ですよっ!」  思った以上に大きく声が響き、若い刑事は慌てて口を噤んだ。 「いつものことだろ。俺らは、上の言うことを大人しく聞いてりゃいいんだ」  先輩刑事は素っ気なく言い捨てはしたが、後輩の憤りは十分理解していた。  本来であれば自分達が立ち会うはずであった現場に本庁の刑事達がなだれ込み、こうして蚊帳の外ならぬブルーシートの外に追い出されてしまったのである。 「別に立ち番するのが嫌なわけじゃないっすよ。殺人(コロシ)ですもん。本庁が出張ってくるのも仕方ないです。でも、この後、駆け回って扱き使われるのは俺らでしょ? なのに、立ち入り不可って……」 「心配いらんよ。この事件(ヤマ)は消えるから」 「は? 消える……って」  後輩刑事は、放たれた言葉の不穏な響きに困惑した。 「事件があったことすら知られない」  先輩刑事は表情一つ変えずに言うと、 「この事件のことは忘れろ。お前のためだ……」  と、続けて命じた。しかし、血の気の多いこの後輩がそれで引き下がるとも思っていない。露骨に不満の色を見せる後輩に「他言するなよ」と一段と声を潜めた。 「去年だよ。俺がいた部署(とこ)で同じような事件(こと)があった。その時も、偉いさんばかりが入れ替わりでやって来てな……。遅れて応援に来た同僚は皆、追い返され、俺を含めて現場を見た数名だけが周辺警備に残された。厳重な口止めを受けてな……」  後輩刑事は驚いたように目を瞬かせた。 「同じ…… じゃないすか。今の、この……」 「ああ。被害者(マルガイ)の刻まれ方までな」  先輩刑事はそう言って、耳の辺りで手を水平に振った。 「その時、俺も先輩から聞いたんだよ。俺ら下っ端には内密の、上層部だけで処理される事件があるって。それを担当する専門の部署もあるらしい」  後輩刑事は思い当たったように、ブルーシートに振り返った。確かに、死体発見直後、鑑識の到着と同時に幹部組(キャリア)が急行するのは異例のことである。 「この件、ただの殺人じゃないってことすか?」  話が核心に近づこうとしたその時、二人は、アスファルトを鳴らす硬質の足音に気づき、急ぎ姿勢を正した。  ヒールの音とともに、まっすぐこちらへ近づいてくるのは、妖艶な色香を漂わせる妙齢の女であった。  朝帰りのホステスであろうか……。細くしなやかな髪を後ろで一つにまとめ、体のラインが浮き立つようなぴったりとしたスーツに身を包んでいる。  話の腰を折られたついでに毒気まで抜かれたのか、二人は不覚にも女の艶やかな容姿に目を奪われた。 「ご苦労様……」  女は小さく呟くと、ぼんやり見とれている彼らを後目に、立ち入り禁止のラインを越えていく。  我に返った二人が慌てて制止すると、女は煩わしそうに革製の身分証を掲げて見せた。それは、どこか真新しい光沢のある警察手帳である。 「拝見します」  刑事達の目つきが見る間に険しく変わった。後輩刑事が口調だけは丁寧に、女の手から警察手帳を抜き取る。  出来の良い警察手帳(おもちゃ)だ……と、二人は初めそう思った。世間をなめた美しいだけの女が、風采の上がらぬ刑事を面白半分でからかっているのだろう……と。  気まぐれに付けたであろうその肩書きも、優秀すぎるくらいの人間が、退職間際にようやく手にすることが出来るものである。むろん、女が知るはずもないだろうが……。  だが…… それにしては、手帳(おもちゃ)の出来が良すぎる。見れば見るほど。悪ふざけでは済まされないほどに……。 「どうしたの。通るわよ」  刑事達の顔に困惑の色が浮かんだその瞬間、女の瞳が初めて、まっすぐに二人を見た。  寒気さえ覚えるような、隙のない眼光だった。刑事特有の……というよりは、何かもっと異質な世界で培われたもののような……。  縛られたかのように、立ちすくむ刑事達。  もし、ブルーシートの傍から男が声を掛けなければ、二人はもうしばらく金縛り状態に陥っていたに違いなかった。 「主査! お早いですね!」  息せき切って駆け寄ってきたのは、小林という名の、先刻、本庁から来た若い幹部組(キャリア)である。  女は軽く頷き、そのまま天幕に向かって誘われていく。 (そういえば…… あの若造も、年齢と階級が釣り合ってなかったな……)  先輩刑事はぼんやりと頭の端で思いながら、まだ呆然と立ち尽くしている後輩刑事の背を、ぽんと叩いた。 「良くできた身分証だ……って言われたわ」  取り戻した警察手帳を小林が差し出すと、美しい横顔は眉一つ動かさず呟いた。  顔写真の下には「霧島 朱夏 Kirishima Shuka」と源氏名のような作り物めいた名前が記されている。 「材質は本物ですから」  小林は上手い返事を考えたものの思いつかず、とりあえず事実だけを答えた。  実際、身分証に記されている情報は、警察関係者として行動する為にあつらえられたものであろう。所属も役職も、恐らくは、その名前すらも……。  この朱夏(しゅか)と名乗る女性が、一連の事件(・・・・・)を解決すべく、アドバイザーとして国から派遣されて来たのは、ほんの五ヶ月前のことであった。  特殊技能保持者であること以外、彼女の素性は未だに知れない。  だが、小林は、さして歳も変わらぬであろうこの上司に、心酔ともとれる信頼を寄せていた。 「妙な感じね……」  ブルーシートをくぐる直前、朱夏が怪訝そうに周囲を見回す。  その様子を、小林は、ぞくりとして見つめた。 (やはり、この人は違う(・・)のだ……)      *  主査 ――――  何度目かの呼び掛けにようやく気づき、朱夏は、はっと顔を上げた。陰惨な現場に不釣り合いな、艶やかな美貌である。  現場に入ってからまだ一分と経っていないが、朱夏はその間ずっと無言で、横たえられた被害者の死に顔を見つめ続けていた。 「状況、お話ししても?」  小林は窺うように朱夏を促した。朱夏の思考を邪魔したのではないかと内心びくびくしていたのだが、この美しい上役はいつもと違い、どこか上の空の様子である。  幾度となく共に現場を回った小林であるが、今日のような朱夏は初めてであった。常ならば、彼女の隣にいるだけで、一瞬の気のゆるみも許さぬ緊張感に縛られてしまうというのに……。  小林は、またもぼんやりとし始めた朱夏を恐る恐る覗きこむと、現段階で判り得たことを簡潔に説明し始めた。 「被害者(マルガイ)は身元不明の二十~三十代の女性。推定死亡時刻は午前三時頃。死因は、刃物状のもので切り付けられたことによる失血死です。傷は全身に大小二十カ所以上。ただし、傷痕の形状から、凶器の種類は複数あるものと見られます。背部中央に見られる幅三十センチに渡る割創が致命傷になったと思われます。また、第一発見者は散歩中の老人。通勤には早過ぎる時間でしたので、現場はほぼ完全な形で確保出来ました。あと…… 着衣の他は一切のものを所持しておらず、現在、公園全域に範囲を広げて遺留品の捜索を行っています」  小林が一気にそこまで言い終えると、今度は、待ち構えていた年配の検視官が、引き続き詳細を説明し始めた。  現場となったのは、オフィス街には珍しい緑の多い公園で、被害者は道幅二メートルほどの遊歩道に倒れていた。検視官による一通りのチェックはすでに終わっており、遺体は担架に乗せられ、道の端に移されている。  朱夏と小林は検視官にうながされ、先刻まで女性の倒れていた血だまりを見下ろすように立った。  鑑識課の青年がノートパソコンを捧げ持ち、検視官の説明に合わせて写真を表示する。  初めの一枚は、発見直後の遺体の状況を写したものであった。  身を起こす途中で力尽きたのか、うつぶせの上半身は少し捻れたまま固まり、血に染まった指先は、まだ先へ進もうとするかのように前方へ差し伸べられている。  ほつれた髪の合間から見える血まみれの頬には、くっきりと、涙の跡らしき白い筋が見てとれた。  検視官は、その場から公園の中心に向かって二〇メートルほど進んだ所、道の折れ曲がっている辺りを指さした。 「被害者が襲われたのは、あの角を曲がって、右手に七〇メートル行った所。噴水がある広場です。そこを起点にしてこちら側へ、血痕が少しずつ量を増しながら続いてます。それと――」  検視官は再び同じ曲がり角を指すと、今度は指を二回、大きく上下に振った。 「あの角に比較的大きめの血痕が二(じょう)。恐らく両足の傷は、あの場所で負ったものでしょう。そして、血痕はふらふらと寄り道しながら――」  検視官は今度は指先を左右にくねらせながら手前に引き、ひときわ大きな血だまりが残る一点を指した。 「あの場所で致命傷となった背中の傷を負い、そこから更に六メートル、ここまで這い進んだ……」  検視官の指は、道の真ん中に記された赤黒い(ライン)をなぞった。所々掠れたその線は、朱夏達の足もとの血だまりで終焉を迎えている。 「なぶり殺しですよ。この子、最後の最後まで助けを求めて……」  小林が怒りに声を震わせた。 「だとしたら、何故なの……」  朱夏は、険しい表情で再び遺体に歩み寄り、その上に掛けられたシートを剥がした。  検視の際に体表部の血が拭われたため、写真とは異なり、被害者の表情や傷痕が、はっきりと見て取れる。 「この傷は、いつ?」  朱夏は、女の顎の付け根の上、赤黒い肉が剥き出しになった部分を指した。  本来であれば耳があるはずのその場所は、左右とも、何かでスッパリと切り取られたように生々しい痕が残っている。 「背中の致命傷を受けた後でしょうな。おそらく証拠隠滅のボディチェックもその時に。血だまりの大きさからすると、数分はあの場所に留まってますから」  検視官は先刻の血だまりを指した。 「死ぬと判っていたから、とどめを刺さなかった?」 「恐らく……。惨い話ですな」 「そう……。だとすると、なおさら解らない。この子が息を引き取るまでの間に何が起こったというの?」  朱夏は突然、路上に膝をつき、瞑想するように瞼を閉じた。  そして、手を地表にかざし、地の底に眠る何かを探り当てようとするかのように、ゆらゆらと左右に這わせる。  数分経って、朱夏は大きく息を吐き、ようやく目を開けた。 「気味が悪いわ……」 「蠱影(こえい)、ですか?」  小林が、朱夏のよく使う表現を先回りして口にした。  蠱影とは悪意に染められた闇のことである。  朱夏が言うには、殺人現場には、殺意、狂気、無念、恨み…… 強烈な想いに染められた闇が横たわっているのだという。  いわゆる残留思念(ざんりゅうしねん)と呼ばれるものであろう……と小林は理解しているが、朱夏の能力は、それらを敏感に読み取ることが出来るらしい。  その多くは情報にはなりえない感情のかけらにすぎないが、時に、被害者が最後に見た情景などが鮮明に残っている場合もあるという。  何であれ、これほど凄惨な現場であれば、朱夏の感じている闇は、きっと深く濃いものに違いない。  ところが、小林の予想に反して、朱夏は重く首を振った。 「いいえ……。それが全く見あたらない。感じられないのよ」 「そんな!」  どんな微かな痕跡であろうと、闇は事件を記憶している。常々そう言っていたのは、朱夏自身ではないか?  時が経つほどに闇は薄れ、陽光の中に溶けていく。だが、強すぎる念を抱いた蠱影のような闇は、消えることも出来ず、小さな木陰や物陰で息を潜めているのだと。  それらを見逃さない為に、自分達は、こうして早急に現場入りしているのではなかったのか?  小林は、納得がいかないというように食い下がった。 「この人は生きようと、この体で、何メートルも這って来たんですよ? 血の跡がそう言ってる」 「だけど闇に残るはずの負の感覚が全部、消えている。いえ、消されてる……感じね。この公園一帯の闇は、信じ難いくらい穏やかだわ」 「穏やか……」  反射的に、小林は、横たわった被害者の顔を見下ろした。  そこには、安らぎに包まれて眠っているかのような、幸せそうな女の顔がある。  そう。笑っているのだ――  この凄惨な光景の主人公であることなど、まるで人ごとであるかのように。 「やはり、彼女と関係が?」 「わからないわ……。闇から何も情報が得られない。判るのは、ここの闇が『何か』に癒されている……ということだけ。彼女も同じように、その『何か』に癒されたのかもしれない」  しかし、その「何か」が分からなければ、何の意味もない……。  朱夏は、おのれの不甲斐なさに、煮えくり返る思いだった。  幸せそうに永遠の眠りにつく青白い女(眠り姫)――  見つめるほどに、朱夏の心は揺れた。  全てに許しを与える聖母のような……その微笑みに癒されそうになるたびに、かえって、その酷たらしい死に様に怒りが沸き上がる。しかし、現場を包み込む優しい空気は、その怒りさえも溶かし去ろうとする。  まるで、日だまりの中にいるような温もりと安らぎ…… 朱夏は振り払うように立ち上がった。 「例え、彼女が許したとしても、私達は違う……」  挑むような朱夏の呟きに、小林が同意するように頷いた。 「では、この(・・)状況に、この(・・)傷…… 十七人目と確定しても?」  小林が、念を押すように尋ねた。  朱夏は、現場をじっくりと見渡し、苦々しげに断言する。 「その(・・)点は間違いないわ」  この瞬間――  国家直属の従影師(かげし)たる霧島朱夏による確認を経て、この事件は「影使(かげつか)い」による連続殺人事件と認定された。  以降、本件は所轄から警察庁警備部特務第二課に引き継がれ、完全なる報道|管制の下に置かれることとなる。
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