第一章  朱夏《しゅか》

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     2  警察庁警備部特務第二課――  表向きは資料庫で通っている人気のないフロアに、その部屋はあった。  厳重なセキュリティシステムに管理されたこのフロアには、極秘事件担当の特務課が置かれている。「特二(とくに)」こと特務第二課は、影使いによる犯罪を取り扱う専門部であり、今回の連続殺人の対策本部でもあった。  現場での検分を終えた朱夏は、別班の捜査の進展を期待してこの配属先へ立ち寄ってみたが、新しい情報は何一つ得られなかった。  だだっ広い室内に、数名の情報解析担当者だけを残し、皆、各々の任務に出払ってしまっている。  そんな時が止まったかのような空間の中、朱夏は伝言板代わりのホワイトボードを睨んだ。 (一体、今まで何をしてきたのか……)  事件の進展が更新されていくホワイトボードに、小林が一七番目の新たな被害者の情報を書き加えている。  朱夏が、主任監査官として特二課に配属されてから既に五ヶ月が経つ。その間、事件の概要どころか片鱗さえも明らかに出来ぬまま、ここにまた一人、犠牲者を出してしまった。  同一犯によると見られる「切り裂き連続殺人 」。  二年の間に被害者は一七名にも上った。性別も年齢も異なる被害者達。同一犯による犯行と断じたのは、おおよそ三つの共通点に拠った。  一つ目は、その全員が、片耳、もしくは両耳を鮮やかに切り取られていること。  二つ目は、全員の身元が不明であること。  衣類を含めて、遺留品は明らかに取捨選択されており、個人を特定できる何物をも身に付けてはいなかった。  そして、三つ目が、犯人の痕跡の完全なる欠如。  刃物による直接的な犯行にも関わらず、現場にはもみ合った形跡すらなく、検証で見えてくるのはいつも、被害者の逃げ惑い、もがき苦しむ姿だけであった。  傷痕から浮かび上がる凶器の形状すら、同じ遺体に刻まれた全てが異なる形状を示した。  当然のごとく、犯人らしき人物の目撃証言もあがっていない。  以上の受け入れがたい事実から、これらの事件は「影使い」によるものと認定され、機密扱いになると同時に、国側へ、アドバイザーとしての「影使い」の派遣が要請されたのである。  国からの命を受け、警察へ派遣された影使い……従影師(かげし)は、朱夏で三代目となる。  従影師とは、その名の通り、自在に影を操る特殊な技能を持つ者達のことで、国家による監理のもと、素質を持つ者達が選び出され、極秘裏の訓練を受けていた。  この国の裏の世界を動かす、政府の直属組織。その中でも、エース級の実力を見込まれ、朱夏は今回の難事件に充てられた。  もちろん警察からも、事件解決に向け最高の人材が投入されたが、今に至るまで、事件解決に繋がる糸口は見つかっていない。  偏執的な通り魔殺人の仮面を付けた、組織的かつ計画的な犯行――  いつも、その確証を深めるだけで、捜査は足踏みを迎えるのだった。 「小林君。新しい情報が出たら連絡して」  今来たばかりだというのに、朱夏はもうドアの向こうに一歩踏み出している。 「あのっ、どちらへ!」  ホワイトボードに集中していた小林が、荷物を掻き集め、慌てて追いかける。 「聞き込み。小林君は、別班と協力して周辺を回って。私は裏手の方を探ってみる」 「待って下さい。僕も行きます!」 「今回はいいわ。私一人の方が目立たないから」 「目立たない?」  小林は、とっさに周辺の地理を思い浮かべた。  現場となった公園の周囲にあるのはオフィスビル群。その裏手は確か、ラブホテルや水商売の店が多く入った一角……。  返す言葉を失った小林を残し、朱夏は足早に去っていった。      *  信号が変わると同時にアクセルを踏み込み、朱夏はうんざりしたように息を吐いた。  現場周辺の聞き込み捜査を終え、定められた居住先へ帰着する途中である。  期待していた情報は、まだ何も得られていない。  しかし、夕刻が近づき、ちらほらと人通りが増え始めると、朱夏は迷わず、風俗店の立ち並ぶ狭い通りを後にした。  日が暮れれば、朱夏が聞き取りを行う相手―― そこここに隠れた小さな闇達も、夜の闇と同化し、判別しがたくなってしまう。 (それにしても……)  一日中、似たような風景、似たような情念に囲まれているのも、気が滅入るものである。朱夏は疲れたように再び息を吐いた。  規模の違いこそあれ、同じ目的で形成された街は匂いまで似ているらしい。  ほんのりと漂う、苦悩や愛憎などの感情の残り香達……。  しかし、それらもすぐに、毎夜生まれる欲望の渦に呑み込まれ、入れ替わっていく。  もう、間もなくである…… 白昼の虚ろな静けさを払い、灯り始めたネオンとともに、忙しなく街が目を覚ますのは。  新蓿(しんじゅく)の片隅。夜の為だけの街―― 朱夏の車は、込み入った路地を通り抜けると、場違いなほど壮麗なビルへと吸い込まれていった。 「お帰り……」  気だるげな空気から腰を上げて、黒いスーツの男がゆったりと朱夏を迎え入れた。  軽く羽織った朱夏の上着に手を掛けながら、男は何かを囁く。 「知ってるわ」  男が告げた情報は、数時間前、特二課の別班が現場周辺で仕入れたものであった。  ここ(・・)にいるだけで、ひとりでに情報はやってくる。  解ってはいるが、朱夏には、それを待つことが出来なかった。真実を知りたければ足で探るしかない、頑なにそう信じている。  しかし、虚実入り混じった情報が交錯するここ(・・)も悪くはない。最近はそう思えるようになった……。  ここ(・・)―― Club(クラブ) PANTHEON(パンティオン)  あらゆる欲望を叶える為につくられたビルの中の歓楽街。  会員制クラブといえば聞こえは良いが、毎夜、政界、財界……各界のセレブリティ達が、華やかな表舞台では決して見せることのない裏の顔をさらけ出す。  完全なる秘密保持と引き換えに、多額の代価を惜しまない者だけが、ここの客となる資格を得る。  神々の居城を意味する「万神殿(パンティオン)」。その隔離された空間の奥部に、ここの者達でさえ知ることのない部屋があった。  朱夏の為に用意された一室。戸籍も過去も抹消された影使いに与えられた、たった一つの居場所である。  国の機関というよりは、隠れ家と言ったほうが近いだろうか……。この部屋で、朱夏は種々の依頼を受け、情報を集める。  このことを知るのは、二人だけ。パンティオンの運営を取り仕切るマネージャーであり、朱夏専属のエージェントでもある、先刻の黒いスーツの男。そして、もう一人は「女帝」の異名を持つ、クラブの女達を束ねているママであった。  パンティオンのオーナーについては一切が謎に包まれているが、ママは、そのオーナーから全権を任されていると噂される。 「朱夏、帰って早々申し訳ないが、まずはママの所へ行ってくれ。いい加減、しびれを切らしてる」  まっすぐに自室へ向かおうとする朱夏に、黒いスーツ姿のマネージャーが懇願する。 「どうせ、店に顔を出せって話でしょう? そんな暇はないわ」 「そりゃ、君にご執心の客達が、大勢しびれを切らしているからね。その件は私からもお願いしたいところだけど。……それより、ここで生活する以上、女帝の機嫌を損なうのは得策じゃない。女達との面倒ごとはなしだ」  朱夏は、しぶしぶというように、ゆっくりと進む方向を変えた。      *  さわさわと揺れる衣擦れと、小刻みにぶつかるグラスの音。  香水と酒の香りの入り混じった、ふうわりと漂う淡くて甘い臭気。  今宵も繰り返される華やかな夜会に向けて、パンティオンの舞台裏は、より一層の慌ただしさを増していた。  パンティオンの中層にある通称「化け猫長屋」。女達の支度部屋が並ぶその区画の先に、女帝の執務室はある。  朱夏が重厚な扉の前に立つと、呼び鈴を鳴らすまでもなく、ロックが解除された。 「奥へおいで」  歯切れの良いハスキーな声は、入ってすぐ正面に置かれた見事な彫り物の施された衝立から流れてくる。  朱夏は衝立の向こう側の、豪華な調度品が置かれたスペースを通り抜けると、その先にある扉を開けた。  そこには短い廊下と幾つかの扉があり、朱夏はその中の一つを開き、更にその奥にある小さなエレベーターに乗った。  エレベーターのドアが開いたとたん、目に飛び込んできたのは、全くと言ってよいほど飾り気のない二十畳ほどのリビングだった。  朱夏は、きちんと並べられた健康サンダルの横に、ヒールを脱いで並べると、うんざりとした声を漏らす。 「こっちにいるなら、先にそう言って」 「仕方ないだろう? こっちは、さっき寝て、今起きたばかりなんだよ。昼まで面倒事が立て込んでてさ。寝不足は美容の敵だってのに……」  ぶつくさ言いながらキッチンから出て来たのは、大きめの盆を捧げ持ち、顔面を白いパックで覆ったキャミソール姿の女であった。すんなりと均整の取れた肢体で、身長も、一六〇センチ半ばの朱夏よりも頭一つ高い。 「大体、あんたも悪いんだよ。一度出掛けたら戻ってきやしない。帰って来ても、どうせ深夜か明け方近くだと思ってたんだよ。おかげで、ろくなもんが残ってない」  女は「座れ」と言うように目で示すと、朱夏の前に盆を置いた。  そこには、湯気をたてる味噌汁とおにぎり、ずいぶんと色の濃くなった煮物、丸のままのトマトとスクランブルエッグが用意されている。 「どうせろくに食べてないんでしょうよ」  女は朱夏のはす向かいに腰を下ろすと、鼻歌交じりでパックを剥がし始めた。  現れたのは、今ひとつ年齢の判らない、目鼻立ちのはっきりとした女であった。三〇代から五〇代、何歳と言われても、とりあえずは通用するに違いない。 「用がないのなら行くわ」  愛想もなく立ち上がろうとする朱夏に、女帝のあだ名を持つその女は、顔面のマッサージを始めながら、不敵に笑う。 「聞かれちゃいないよ。ここは私の城だ。盗聴はもちろん、影使いだって、おいそれとは手を出せない造りさ。相手が国の奴らだって好きにはさせない。ま、マーさんには、ちと気の毒だけどね」  政府側の人間であるパンティオンのマネージャーを、女帝は「マーさん」と呼んで、アゴで使っている。  背後のエレベーターをちらりと確認する朱夏に、女帝は、座れ……と再び目で示した。 「ま、私は、構わないんだがね。あんたとの関係が漏れたって。ただ、あんたが天涯孤独でいたがってるから、こうして気ぃ使ってるんだ」 「ママに迷惑がかかる」 「今更、何言ってんだかね。ここの()達があんたのことを何て噂してるか知ってるかい? オーナーの愛人、女帝(わたし)の隠し子……。やっかみ半分にしろ、なかなか良いとこ突くだろう? ま、ろくに客もとらないくせに、VIPオンリーの上層階に、ふらふら出入りしてるんだから仕方ないけどねえ」 「なら、なおさら」 「無駄、無駄。あんたは、大人しく息を潜めてるつもりかもしれないけどね。女ってのは秘密の匂いが大好物で、その上、やたらと鼻が利くんだよ。幸か不幸か、あんたは放って置いたって目立っちまうんだ。厚かましく噂に乗っかってるくらいで丁度良いのさ」  厳しい顔のまま、再び席を立とうとする朱夏を、女帝が静かに見据えた。 「朱花(あやか)」  女帝の唇からこぼれたのは、帰らぬ日を思い起こさせる懐かしい響きだった。  影使いとして生きると決めた時に、失ったはずの本当の名前。  もう一度、愛おしむようにそう呼ばれ、朱夏はばつが悪そうに、浮かした腰を沈めた。 「いいから、まずは食べるんだよ。話ならあるんだ。食べながらでも、聞けるだろうよ。……青っちろい顔してさ。折角、手塩に育てたって言うに、台無しさ」  朱夏は反抗を諦めて、箸を取った。  食欲など全くなかったが、一口、二口と口へ運ぶ内に、急激に空腹を思い出した。焦りと不甲斐なさで、当たり前の感覚まで麻痺していたらしい。  女帝は、黙々と箸を進める朱夏を満足そうに眺めている。 「空腹じゃ頭も回らないからね。……で、死んじまった娘の身元だろ?」  むぐ…… と朱夏が咽せた。今朝の事件は、情報封鎖がされているはずである。 「どうしてそれを?」 「口にものを入れたまま話さない」  朱夏は、頬張ったご飯を、味噌汁で流すように呑み込んだ。 「ほんと、もうちょっと行儀をしつけてから手放すんだったよ」  ぼやくように言うと、女帝は話を続けた。 「そういや、あんた、今日、風俗まわりをうろうろしてたろう? 客層が違うからって、油断しすぎさ。うちに出入りしている女や業者もいるんだ。忘れちまってるようだが、あんたは一応、うちの女ってことになってんだよ。身内に警察みたいなのがいたんじゃ、外聞悪いんだからね」  政府機関に間貸しまでしておいて、いけしゃあしゃあと言えたものである……。朱夏は心で突っ込みながら、前置き代わりの小言が過ぎ去るのを待つ。 「で、本題さ……。昼前だったか、(うち)()達が、一杯やりながら物騒な話をしててね。どうも、あんたが追ってるネタらしいから、出所を辿ってみたんだよ」 「本当に、被害者の身元が?」 「いいや、職場と住処だけだよ。せいぜい扉が一つ開くだけさ。そこから先は、また別の鍵が要るんだろうね……」  朱夏は、ぞくりと鳥肌が立つのを感じた。ここには、警察が全力を挙げても掴めなかった被害者の素性を、「酒の肴」に興じる女達がいる。  じりじりと待ちかねる朱夏に、女帝は悪戯な笑みを閃かせた。 「さ…… 続きは、全部食べ終わってからだよ」
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